第160回 うろおぼえ同好会


 それにしても人間の記憶というものは曖昧なもので、しっかり憶えていたはずのものが、いくら考えてもぼんやりとしか浮かんでこない、というのは往々にしてあることです。誰しも一度や二度は「うろおぼえで申し訳ないんだけど」などと断ってから話したことはあるでしょう。けれど考えてみれば人間は忘却する生き物です。忘れるという現象は至極あたりまえのことなのです。何を「申し訳ないが」などと前置きする必要がありましょうぞ。ニーチェがこんなことを言っています。
「忘れるということは恥ずかしいことではない。少なくともそれはパンツの前後を逆さまに穿いていることよりはずっと恥ずかしくないことである。そもそもパンツとは」
 このあとは忘れました。ニーチェじゃなくって、ロシュなんとかという人だったかもしれません。とにかく、忘れるというのは極めて自然な現象ですから、「申し訳ないが」なんていう必要はまったくありません。
 ところで人間はまた言語で通じあう生き物でもあるのです。ものを喋るとき常に正確な知識正確な記憶のみに頼っているわけにはいきません。不正確なことを言うのを怖れるあまり言葉を発することをためらっているようでは、人と人の間に真の交通は発生しえないのです。うろおぼえを怖れるべきではないのです。
 さて、あなたは「うろおぼえ同好会」の存在を知っていらっしゃるでしょうか。「うろおぼえ同好会」は、うろおぼえに対する人びとの羞恥や偏見を除去することを目的として、平成七年だったか八年だったかに結成された会です。
「うろおぼえ同好会」は提言します。「世の中、うろおぼえでもいいじゃないか」
「うろおぼえ同好会」の活動内容は至って簡単です。月一回第二日曜日、あれれ第三日曜日だっけ、に交流会を開きます。たいていは喫茶店などに集まるのですが、以下は先月の交流会で交わされた会話の一部です。
「最近ちょっとギリシア悲劇に凝っちゃってるんですがね」
「ほう。そいつはなかなか。で、どんなのをお読みになりました」
「定番なんですが、あれです、あれ。ええとね。何だっけな。父親殺しのやつ」
「ええっと。ああ、あれね。オイなんとか王」
「あ、そうそうそれです。オイ……オイ……」
「オイデヤス王」
「あー、そうだっ。それそれそれそれ。それです」
「確か母親と結婚して四子をもうけるんでしたね」
「そうですそうです。ええとね。こないだ読んだところだからちゃんと憶えてるんですよ、その四人の名前」
「ほう」
「ええっとね。オクレヤス、ゴメンヤス、マイコドス、ブブヅケイカガドス」
「すごいじゃありませんか」
「えへへ。うろおぼえだけど確かですよ」
 会はこんなふうに進んでまいります。ちょっと聞くと高尚な話をしているように聞こえますが、ご安心ください。実はうろおぼえだらけです。正しいことなどほとんど言っていません。
 こんなのもあります。
「ところでね、最近気になることがありまして」
「なんでしょう」
「いろんな知人がね、わたしを見かけたっていうんですよ」
「ふむ」
「ところがね、それがわたしが行ったことがない場所だったり、知人が見かけたっていう時間に実はわたしはぜんぜん違うところにいたり」
「ほう」
「たとえばね。向かいのホーム。路地裏の窓。そんなとこにいるはずもないのに」
「もしかしたらあなたそっくりな人がいるんではないでしょうか」
「ああ。なるほど。ええと、そういうの、何て言うんでしたっけ。たしか、芥川龍之介も死ぬ前に見たっていうやつですね」
「んーと。何だっけ。ふっふふふふー、みたいな感じの言葉でしたよ」
「ふっふふふふー」
「ふっふふふふー」
「ふっふ。あっ。思い出した。ベッケンバウアーですよ」
「ああ。そうだそうだ。それそれそれそれ。ベッケンバウアーですよ。そういやあ、ベッケンバウアーを見た人は間もなく死ぬって言いますよ」
「恐いなあ。何か異次元というか別世界に紛れ込んじゃったみたいです」
「この世界から離れたところに無数に同じような世界があるって言いますからねえ」
「ああ。SF小説でよく出てくるあれですね。ええっと、何とかワールド」
「何だっけな。離れた世界。離れた……あっ。そうか。ハナレルワールドですよ」
「うん。それそれそれそれ。離れているだけにハナレルワールド」
 いかがですか。あなたも「うろおぼえ同好会」に入会してみませんか。入会金とか会費は一切必要ありません。会ではひとりでも多くの方のご参加をお待ちしています。
 参加方法は簡単。うろおぼえ同好会会長のええと誰だっけ、山田さん、いや山本さんだったかな、とにかくその山なんとかさんまでご連絡ください。


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1998/09/21
文責:keith中村
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