第158回 聖職の碑


 教師という職業は特殊である。
 もちろん、普遍的な職業などというものはなく、どんな職業だってそのもの固有の、他と区別できる特徴を備えているものだろうけれど、それでも教師という職業は特殊であると私は考えるのだ。
 教師が特殊であるのは、彼が日頃接する人間のほとんどが子供であるということに起因する。子供というのはたいてい非論理的である。論理的の対語を感情的と決めてしまっていいものかどうかは判らないが、ともかく子供というのはむしろ感情的な生き物である。
 ところで、言葉というのは基本的には論理構造をもったものだが、論理的でない子供という生き物はまだまだ言葉を論理的に使いこなすことができない。なんだか堅苦しい書き方になってしまっているのだが、簡単にいえば、子供の言うことはだいたい無茶苦茶である。
「うちの父ちゃんは課長やねんぞ」
 子供というのはまだまだ特有の才能や個性を開花させる以前の存在であるから、自分そのものを頼みにできる部分は少ない。それで、こういう血縁関係の自慢話というものをしばしばやるのだが、こういう場合に子供の出鱈目さは顕著になる。
 先の言葉に応じてもうひとりの子供は言うのだ。
「うちの父ちゃんなんか部長やぞ」
 すると、課長の息子はぐっと言葉につまったあと、こんなことを言いはじめるのだ。
「何言うてるねん。ほんまはうちの父ちゃんは社長なんや。ほんまはな」
 この時点ですでによく判らないことになってしまっているのだが、部長の息子が混乱に輪をかける。
「うちの父ちゃんは総理大臣やねんから。嘘ちゃうねんぞ、ほんまや」
 もう、双方とも事態を掌握しきれなくなっている。
「何や、そんなん。隠してたけど実はうちの父ちゃんは天皇なんやぞ」
 そんなことは隠しおおせるものではないと思うのだけれど、そんなことを言ったりする。
 そして、とうとう、
「それがどないしてん。天皇よりモスラの方が強いねんぞ」
 このように子供というのは、非論理的な存在である。
 別の例をあげてみる。
 子供というのは、原因と結果、手段と目的、過程と成果、などの時間軸的感覚を要する思考が苦手である。授業中に失禁してしまってから、こんなことを言うのだ。
「先生、トイレ」
 名詞を二つ並べただけで、意思疎通を図ろうというのも、「ヨコハマ、たそがれ」のようでちょっと困ったものだが、何よりもちびってしまってからトイレに行ってどうなるものでもないと思う。結果が出てからでは遅すぎるのだが、子供というのはそのあたりをよく判っていないようだ。
 教師とはそんな子供たちを教え導く人間であるから、いきおい彼らに合せたよく判らない発言を多用することになる。
 たとえば、遠足を終えて解散するときに教師が「家に帰るまでが遠足です」というのは比較的よく知られたことである。この言葉は応用範囲が広く、最近では「家に帰るまでがワールドカップだ」はかなり人口に膾炙したもので、先日台湾に行った折りも、旅行代理店の人間が最後に「みなさま、家に帰るまでが社員旅行でございます」と言っておった。しかし、考えてみると、なんだかよく判らない言葉ではある。
 ライブに行ったとしよう。のりのりである。終わりにロックスターが言うのだ。
「みんな、家に帰るまでがライブなんだぜっ」
 いえーい。こうなったら頭と手を前後に振りながら「オイオイオイ」と家に帰るしかないだろう。
「家に帰るまでが闘牛です」
 しとめそこねた牛に追いかけられているだけだ。ちょっと困ると思う。
 これとよく似た言い回しでやはり遠足のときに用いられるのは「今日の宿題はまっすぐ家に帰ることです」というのもある。日頃非論理的な子供がこういうときだけは「まっすぐ帰ったら塀にぶつかる」などというのもやはりちょっと困ったことではある。
 そういえば、教師はこんなことも言う。
「小さく前へならえ」
 今から思えばあれは何だったのだろう。小さく、というのがよく判らないが、思い起こせば電車ごっこのようなかなり屈辱的なポーズをとらされていた。
 そしてまた、「先生は悲しいぞお」なんて言ったりする。「牛乳も最後まで飲まなくちゃいけん」
 などと心底悲しそうな顔になったりするのだ。
「やればできるじゃないか」
 飲み干したら飲み干したで、涙眼になってそんなことを言うのだ。
 そうそう。牛乳といえば、教師はこんなことも言っていた。
「牛乳は栄養があるから十回噛んでから飲みなさい」
 などと、さっぱりわけの判らないことを言ったあと、
「栄養があって、ええよお」
 こんな安易な駄洒落でも、しかし、子供は噴き出したりするのだ。
 牛乳を含んだままで。困ったものだ。


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1998/09/15
文責:keith中村
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