第153回 バベルの御飯


 ブリューゲルがバベルの塔の絵を二枚描いているが、そのうちのひとつに恐らくは建設中と思われるバベルの塔の前に人がたくさんいる風景がある。取り巻き連中を引き連れた偉そうな髯親爺の前に何人もの人が跪いているのだが、私は見るたびにこんな台詞を想像する。

 取り巻き「完成した暁には、最上階に蝋人形館を作る予定でございます」
 髯親爺「それは楽しそうだ」
 跪く男1「おねげえですだ。そんときゃ、フランク・ザッパの人形も展示してくだせえ。あっしゃ、大ファンなんでさ」
 跪く男2「何言ってるだ。これからあ、マイケル・ジャクソンの時代だべ。おねげえです、お代官さま。マイケルの人形を置いてくだせえ」
 跪く男3「ついでにバブルス君も頼みますだよ。後生ですだ」

 ブリューゲルがどういう意図だったかは知らぬが、多分当らずとも遠からずであろう。
 だが、残念なことに塔がついに完成しなかったのはご存じの通り。跪く男1の願望は何千年もあとの東京タワーでようやく実現した。
 しかしこれは本論とはちっとも関係がない。
 さて、創世記では、神がこんなことを言う。
「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう」
 私は聖書を読むたびに感じるのだが、神の言葉というのは何だか判りにくいのだ。これだけ短い引用で「彼ら」という言葉が四回も使われている。まるで中学生の英文和訳ではないか。神は日本語がかなり苦手だったに違いない。
 かかる言語能力の低き神が、あろうことか「ことばを混乱させ」た。だいたい無茶苦茶をやろうとすれば、まず基本が身についていないといけない。作家や詩人が言葉を混乱させられるのは、基本をきっちり押さえているからだ。ちょうど抽象画家の若い時分の習作がものすごく精巧な写実画であったりするのと同じである。しかし、基本がなっちゃいない神が言葉を混乱させたのだから、始末が悪い。そりゃもう、ぐちゃぐちゃになってしまった。せめて筒井康隆くらい読んでから混乱させてほしかったのだが、まあ今さらそんなことを言っても始まらない。
 とにかくそれ以来、言語は無政府状態に陥ってしまったのであった。
 たとえば身近な例では「五目ごはん」はかなり無政府である。
 肉やら野菜やらを混ぜ酒や醤油で味付けて炊き込む、あの料理である。
 別名を「加薬ごはん」ともいう。あるいは「炊き込みごはん」。おなじものを小さな釜で食べると「釜飯」になる。しかも原義ではそうだが、じっさいには茶碗で食べても釜飯と言ったりする。
 いま挙げた四つはすべてかなり普遍的に用いられる言葉である。標準語的共通語的に全国で通用する言葉である。
 これはちょっと不思議なことである。かつて柳田翁がその方言の多様性に着目して方言周圏論を展開した「蝸牛」でさえ、標準語的に通用するのは「かたつむり」「でんでんむし」「まいまい」の三通り。文語の「かぎゅう」を入れると四つになるが、これを話し言葉で使う人はまずいない。しかし、五目ごはんは日常的に通用する言い方だけで四つもあるのだ。
 更に、ここに方言が加わる。
 以前何人かで話していて、子供の頃に食べたもの、という話題になったとき、ひとりが言った。
「そういや、骨董ごはんのときっておかずが少なくって嫌だったよな」
 会話が停まった。
「……今、何て言った」
「だから、おかずが少なくて嫌だって」
「そこじゃない。その前だ。何ごはんだって」
 そう言われた彼は、しまった、という顔になった。
「ああ。ついつい口に出てしまったんだ。ごめん。五目ごはんのこと」
「確かコットーごはんと聞こえたんだが」
「うん。うちの田舎ではそう言うんだ」
「コットーって骨董品のあの骨董か」
「……そう」
 ぎゃははは、と一斉に笑いがおこった。「何だよそれ」「要するに、五目ごはんは骨董品くらいの値打ちがあるってことか」「貧乏くせー」「うひゃひゃひゃ」
「そ、そんなに笑うほどのことかよ」骨董ごはん男は口を尖らせて抗弁した。
 恐らく彼の田舎で最初に五目ごはんを食べた男は、感動のあまり眼をうるませてこう言ったのだ。「ああ。何ておいしいんだ。こんなうまいものが世の中にあったなんて。まるで骨董品じゃないか。そうだ。これは骨董ごはんだ」
 すると、笑っていた一人がぽつりと、「あ。そういや、うちの田舎では」
「なに」
「味ごはんって言う」
 今度はそいつが笑いものになる番だった。味ごはんとはどういうことか。「味」がついているだけではないか。貧しい田舎で普段味気ないものばかり食べてるからだろ。という揶揄が飛んだ。
 味ごはん男の田舎にもいたのだ。「おお。こんなうまいものがあっていいのか。まったりとしてそれでいてしつこくない。素晴らしい味だ。そうだ。これを味ごはんと呼ぶことに決定」
 こうなると、もう全員を俎上にあげるしかない。別の男に訊く。「おまえんちでは、何ていうんだ」
 言われた男はもぐもぐ口ごもりながら、「さっきのと、よく似てるんだけどね。……味付けごはん」
 ぐはははは。また笑いものになる。
 いたのだ。「なんてこった。このご飯には味が付いている。信じられないが本当だ。こりゃ、味付けごはんだよ、まったく」そんな奴がいたのだ。
 そしてとうとう私の番であった。「お前は何て言うの」と訊かれる。
「普通だよ。五目ごはんとか、加薬ごはんとか」
「そんなわきゃねえだろ。ひとりだけ格好つけんなよ」
 五目ごはんとか加薬ごはんが果たして格好いいものかどうかは知らないが、ほんとうにその呼び方をしていた。と思ったのだが、長らく田舎から遠ざかっているので忘れていただけで、実はあったのだ。その直後、記憶の中からひとつの単語が浮かんだ。
「……いや。あった」
「何なに」
「……混ぜごはん」
 一瞬の沈黙のあと私は笑いものになっていた。
 いてやがったのだ。「うわ。うわ。すごいよ、このごはん。いろんなものが混ぜてある。うわ、こおんなものまで混じってる。すごい、すごいぞー。混ぜ混ぜー。混ぜ混ぜー。うっひょお。こりゃ、混ぜごはんだよー」
 センスのかけらもない、そういう馬鹿野郎がいやがったのだ。なんということだ。
 これらはバベルの塔以降の時代に生きる人間に普く降りかかる不幸であったのかも知れない。
 主よ、主よ。などて我を見捨て給ひしや。
 ところで、あなたのお家では何て言いますか。


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1998/08/25
文責:keith中村
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