第152回 インドへの道


 文学かぶれというか何というか、私にはそういう傾きがあって、偉そうにいっぱしの口をきいたりする。
「なにー。車谷長吉が直木賞だと。ばか馬鹿ぶわか。そういう馬鹿なことを決めた奴はどこのどいつかオーストリアか。どう考えてもあの人は芥川賞型ではないか。直木賞なんてつまらない賞なんかやっちゃ駄目じゃないかー。んがあ」
 何様気取りだ。
 しかしその実、普段知ったかぶりで使っているだけで、よく判らない単語というものも多い。
 たとえば「メタ」である。メタ何々、というのが文学理論や文学批評ではしばしば使われる。
 広辞苑によると、メタというのは「間に、後に、越える」というギリシア語であるという。だが、これだけでは何のことやらちっとも判らない。
「メタ言語」という言葉がある。対象について述べる対象言語に対して対象言語の表現内容について述べる言語のことで、対象言語とメタ言語は相対的なのだそうだ。で、メタ言語も、更に高次のメタ言語に対しては対象言語となるらしい。と、辞書にはある。うらー。お前らわざとややこしいこと言っているだろ。全然わけが判らない。
 私がかろうじて意味を掴めるのが「メタフィクション」という言葉である。この範疇に属するものには、古典的には「作者を探す六人の登場人物」があるが、たとえば日本のSFではざっと思い付くだけでも、星新一「不在の日」、小松左京「こちらニッポン……」それにもちろん筒井康隆には「虚人たち」を筆頭に数々の作品がある。メタフィクションというのは虚構であることをより強く打ち出した虚構とでもいうべきもので、端的にいうと「登場人物が、自分が作品中の人物に過ぎないことを知っている」ような作品であるといえようか。漫画ではかなり古典的な手法で、「よし、北海道へ向けて出発だ」「ひゅーん」「おや、もう着いたぞ」「漫画だから、はやいね」のような会話はよく見られる。
 とにかく私にはメタというのはよく判らない言葉であり、ぼんやりと「より高次の」「ある概念を定義規定するための」というくらいに捉えている。
 さて、私の家の近くにインド料理店がある。二階建の小さなビルで、インド人が経営しておる。
 インドといえば、カレーである。カレーと聞いて黙っている私ではないのだが、それでも実は私はこの料理店に行ったことがない。というのも、私はカレーは好きだが、インド人が恐い。何だかおかしな話ではあるのだが、実際そうなのだから、仕方がない。これじゃ、片手落ちだという気がする。あ、ちょっと違うな。仏作って魂入れず、だ。あ、もっと違うな。まあ、よろしい。とにかくそうなのだ。インド人には申しわけないのだが、恐いのだ。
 何しろインド人というやつはわけが判らない。脇を大きく開いて胸の前で合掌するだろ。しかも、そのままの姿勢で顔だけを右に左に平行移動するだろ。挙句の果てにターバンだろ。ビンディーだろ。そんな奴は信用できない。
 インド人、ごめんなさい。悪気はないのです。思うに、これは幼児体験が原因であろう。
 幼稚園の頃に見た夢なのだが、その中でどうしたことか私はインド人の女子の人に連れ去られるのであった。妙齢のたいへん美人のインド人であった。インドな様子のひらひらの薄物をまとった彼女は、私を胸の前で抱いて連れ去るのであった。もし、現在私の身に同様の事態が発生すれば「もう、どこにでも連れてってください」と言うであろうが、当時は怖かった。
 多分、インド人が怪しい時代だったのだろう。私の、インド人観にいちばん近いイメージはさくらももこの描くインド人である。「はられよー。ろれろれー」などとかなり判らないことを言いながら踊ったりしているのだ。同年代の人には私の言っていることが伝わるだろう。そんなもの伝えられても迷惑だろうけれど。
 とにかく、昔インド人は謎だったのである。すぐ吃驚しやがるし。
 で、インド料理店なのだが、私がこの前を通りかかると、いつも経営者のインド人が二階の窓から外を眺めている。白い服にターバンを巻いた、絵に描いたようなインド人男性が身じろぎもせずにじっと外を見ているのだ。それも無表情。これはちょっと怪しい。私の中のインド人フォービアを刺戟する。
 そんなわけで、このインド料理店には足を運んだことがなかった。
 先日、郵便受けにこのインド料理店のチラシというかスロアウェイというか、そういう紙が投入されていた。
 黒インク一色だけのそのチラシには店までの略図だの品書きの一部だのが掲載されており、それとともにインド様のくねくねっとした文字でこういう文章が載せてあった。
「インド人のメタおじさんご自慢の手作りカレーと手作りナン。ガラムマサラの香りも絶品。ぜひ一度ご来店ください」
 私は絶句した。ナンということだ。いや、何ということだ。あのいつも外を眺めているインド人男性は「メタおじさん」だったのだ。
 なかなか侮れない。ただのおじさんに非ず。「メタおじさん」なのだ。
「メタ」であるのだ。私にとって難解な、ほんとによくわからないところの「メタ」おじさんなのだった。
 接頭語ではなく、それが彼の名前であると考える人もいるだろう。それは間違っている。何しろメタおじさんだ。そんな変な名前があってなるものか。きっと奴の名前はサタジットに違いない。インド人だもの。メタおじさんサタジットだ。
 彼はメタ存在なのだ。ということは、あの、窓際で外を眺めているとき以外、恐らく彼は実体がないのだろう。なにやらぼんやりした輪郭でそこいらにふわふわ浮かんでいるのだ。「はられよー。ろれろれー」と踊っているに違いないのだ。
 メタの意味に則して考えると、彼は「間のおじさん」なのだ。間男ではない。間おじさんだ。ナンを頬張っていると、その間にこっそりひそんでいたりするのだ。恐るべし、サタジット。
「後のおじさん」なのだ。カレーを喰い終わって、ふと背後を見るとそこにいるのだ。無表情に。「サア。カレー終ワリマシタネ。ワタシト踊リマショウ」そう言うに決まっている。「はられよー。ろれろれー」なのだ。
「超えたおじさん」なのだ。最近「肥えたおじさん」めいてきた私とはちょっと違う。「超おじさん」だ。英語にすると「スーパーおじさん」だ。英語になりきっていない。フランス語にすると「シュールおじさん」なのだ。なりきっていない。
「より高次のおじさん」なのだ。きっと四次元おじさんだ。サタジットは壁を抜けたりできるのだ。
あまつさえ「おじさんという概念を定義規定するためのおじさん」なのであった。おじさんがおじさんであるために存在しているおじさんなのである。普通のおじさんを対象おじさんとすれば、メタおじさんは対象おじさんの表現内容について述べるためのおじさんなのである。しかも、それは相対的であり、より高次のメタおじさんに対してはサタジットとて対象おじさんとなるのである。難解である。
 やはり怪奇メタおじさんサタジットのカレーは「メタ・インドカレー」なのか。「ル」がない。
 いやいや、カレーだけに「ルー」がないのは困ります。
 はっ。これじゃ大喜利。


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1998/08/22
文責:keith中村
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