第15回 手に取る


 しばらく漢字二文字の題名が続いたが、ディック・フランシスと間違われてもなにだから、やめてみた。
「手に取るように解る」という言い回しがある。わたしには取り敢えず眼に入るものを手に取ってみるという習癖があるのだが、手に取ってみて「手に取るように解」ったという経験はあまりない。
 たとえば今手許に「ジョージア・イパネマブレンド」なる罐コーヒーがあるので、しげしげと眺めてみる。まず罐の表というのか知らぬが自動販売機では必ず正面を向いている側にはイラストがある。おそらくはコーヒー農場と覚しき場所にステッキに帽子といういでたちで白人紳士らしき男が右前方を向いて立っている。男の一メートルばかり背後にはエプロンをつけた娘が佇立しており、さらも向こうにはコーヒーの樹に紛れてよくわからぬがどうやら黒人男性がいるようだ。黒く塗ってあり判然とせぬのだが、帽子らしきものが見えるのでおそらくそうなのであろう。
 これを手に取ってみて、さて、何が解るかというとやはり何も解らぬのだ。
「あー。娘がいるなー。やはりイパネマの娘かなー。おやー。黒人かなー。黒くてわかんないなー。黒人を黒く描くのはたしか御法度だよなー。堺の親子が怒るなー。このコーヒーおいしいから、堺の親子怒らせて発売中止になると嫌だなー」
 など、頭のなかをつらつらと横切るものはすべて感想だけであり、事実は何も解らぬのである。
 反転させて後部を見ると、「1998年長野オリンピック聖火リレーはGEORGIAが応援します」とある。ジョージアが応援するというのはどういうことか。ジョージアというのはこのコーヒーの商標であるから、コーヒーが応援するという意味になる。オリンピックに協賛するというのが企業のステイタスになっているのだろうが、この謂いでいけば、「オリンピックはキチントさんが応援します」「オリンピックはゴキブリホイホイが応援します」なども成立し、ひいては「オリンピックはうちの三毛が応援します」「オリンピックは青葉台幼稚園ウサギさん組のタカシ君も応援するでちゅ」「オリンピックの槍投げは隣りの田中さんが投げやりに応援します」などという言い方も可能になる。もちろん、応援するのは自由であるが、そんなものどもばかりに応援されてもちょっと厭だ。
 話が逸れた。罐コーヒーであった。原材料名を見てみる。「コーヒー、砂糖、全粉乳、脱脂粉乳」などと列挙されているのはいいが、その次が問題だ。「デキストリン」とある。
 何だデキストリンとは。なにやら穏便でなさそうな名前ではないか。「できてません」にも似ているので、後ろ向きのネガティブな奴かもしれぬ。そんなものに入っておられたのではこの先おちおちと「イパネマブレンド」を飲むわけにもいかぬので、辞書をひいて見る。

デキストリン【dextrin】:糊精(こせい)に同じ。

 これだ。辞書の常套手段である。解らぬ言葉を更に解らぬものに言い換える。一介の庶民にはデキストリンの意味なんか絶対に教えてやらぬという悪意に満ちたスノッビッシュなペダントリーをまきちらしておる。ここで追撃の手をゆるめては先祖に申し訳が立たぬので「糊精」をひくことにする。

こせい【糊精】:白色または淡黄色粉末の炭水化物。澱粉を酸またはアミラーゼで加水分解する時に生ずる中間生成物。水に溶ける。粘着力強く、印紙・封筒などの糊に用いる。デキストリン。

 だから、それは何なのだ。加水分解だの中間生成物だの難解な言葉を並べてはものごとの本質を隠蔽しようとする。しかも最後には「デキストリン」などと涼しい顔をして書いていやがる。これでは無限ループだ。ウロボロスだ。頭山だ。だが、新村出よ。そんなことで胡麻化されるおれではないのだよ。なにしろおれは辞書一冊から水素を作り上げてしまったかんべ先生の著書を読んで育ってきたのだ。「印紙・封筒などの糊に用いる」とあるではないか。遂に尻尾を見せたな新村出よ。ようするに切手の裏に塗ってあるあれだ。あれがデキストリンなのだな。そうだったのか。やはり穏やかでない相手であったか、デキストリンよ。どんなに社会的地位や名声がある者でも貼るために切手を舐めるという行為は間抜けである。しばらく口をつぐんで唾液を溜めたあと、べろんと舌を出して切手を舐める。これだけでもちょっとどうかと思うが、舐めたその瞬間に名前を呼ばれたりした日にゃ、これはよろしくない。舌を出している上に、切手を貼りつかせているので「ほが」などという気合いの入っていない返答しかできぬのであり、まさに百年の恋も冷めるというものだが、そうか、お前がデキストリンであったのだな。そんなものが「イパネマブレンド」には入っているのである。
 などと書いていたら、最初の趣旨から逸脱してデキストリンの正体が解ってしまったのだが、これは筆者に知的探求心があったからに他ならないので、良い子のみんなは真似しないように。
 手に取るだけならば、このような発見もあろうかというものだが、実はわたしの悪癖は、手に取るだけにはとどまらぬのである。なんとなれば、
「手に取ったものを、顎にあてる」
「手に取ったものを、耳にあてる」
「手に取ったものを、頭に乗せる」
などという振る舞いをついついやってしまうのである。
 手に取ったものが柔かいものであった場合、ついつい顎にあてて、心の中で「ひげー」などと呟いてしまう。たとえばサムタイムライトの空き箱など、どう頑張っても鬚には見えぬものですら「ひげー」などとやってしまうのは自分でもちょっと困る。
 柱状のものならば、耳に持っていってしまうが、そういう場合は心の中で「ああ。もしもし。もしもし」などと呟いている。困ったことに藤山寛美だ。
 極めつきは、同じものが二つあった場合である。たとえば、空き罐二本、ペン二本、文庫本二冊、草履一足などがそうなのだが、頭の左右に二つを均等に立てたのち、心の中で呟く言葉は「ウサギだぴょーん」なのである。いい歳した男が新潮文庫二冊を頭に乗っけて何が悲しうて「ウサギだぴょーん」、ちょっとどうかと自分でも思うのだが、癖というものはなかなか直せぬそういうものである。実は今日も仕事場で乾電池が二つ転がっていたので、手すさびに遊んでいるうち、ついつい衝動を押さえきれずに頭に乗せてしまったところ、向かいのデスクにいたアルバイトに見られてしまった。彼はたっぷり四秒憐憫の眼ざしを向けたあと諭すように口を開いた。
「もうすぐ三十なんですからね」。
 日常にはどんな陥穽がぽっかり口を開いて待ち受けているや判らない。これを読まれた諸氏は、くれぐれも頭にものを乗せるという行為を謹まれたい。


新着順一覧 − 日付順一覧 − 前を読む − 次を読む − トップページ


1997/11/06
文責:keith中村
webmaster@sorekika.com