第147回 階段


 そろそろお盆休みが始まったという方もいらっしゃるかと思う。盆というのは私にとってはやや憂鬱な時節である。もちろん仕事が休みになるのは嬉しいのだが、盆になると近所の食事のできる店が閉まってしまうので外食中心の私はいささか困ることになるのだ。併せて、田舎の実家から「お盆くらい帰ってきたらどうなのか」などと言ってくるのも憂鬱である。どうせ帰省しても「いつまでふらふらしているのだ」などという小言を聞かされるだけであるし、することもなく退屈極まりない。まったく、霊じゃあるまいしお盆のたびにそうそう嬉しそうに帰れるものか。
 さて、盆ということで今回は趣向を変えて恐い話などしてみようかと思う。とはいえ、私はたいへんな臆病ものであるうえ、恐い話の語り口が下手であるゆえそれほど恐いものにはならぬだろうけれど。
 じっさい私はとても恐がりである。これまでに所謂幽霊というものを見たこともなければ、そういったものの存在に関してもむしろ否定的な立場ではあるのだが、それはそれである。恐いものは恐い。しかし反面恐いもの見たさというのか、そんな気持ちも人一倍強い。そんなわけで怪談の集まりなどがあると積極的に首を突っ込んできた。もちろんそのたびに後悔し、以後ふた月ほども灯りを点けっぱなしで眠るようになるのだが。
 それでも恐い話をあちこちで聞くうちに次第に馴れてくる。恐い話は都市伝説と同じである種の物語原形のようなものがあり、よく似た話も結構多いのだ。初めて聞く話というのは流石にかなり恐いこともあるが、同じパターンの話は二度目三度目には「あの種類の話」と分類できるので恐さに馴れるのである。そのうちたいていの恐怖譚というのは、たいていどこかで聞いたような話ばかりになってくる。
 私の知人に恐い話がとても上手な人間がいる。語り口が巧い上に、ありがちな類型ではない話をするので矢鱈と恐い。
「子供の頃、弟と同じ部屋で、寝るのは二段ベッドの上下だったんだ。俺が上でね。ある晩電気を消してベッドにもぐり込んで、しばらく寝つけずに横になってたんだ。するとさ、下のベッドで弟がぶつぶつぶつぶつ呟いてやがんの。しばらくは我慢してたんだけど、ちっとも止めないから、怒鳴ったんだ。『うるさい。眠れないだろ』ところがほぼ同時に弟も叫んだ。『兄ちゃん、眠れないから静かにしてよ』」
 いかん。夜中にこんなもの書くんじゃなかった。鳥肌が立ってきた。多分読んでいるあなたはそれほど恐くないんだろうなあ。恐がっているのは私ひとりなんだろうなあ。そんなのいやんいやん。しくしく。
 なんてふざけても恐さが緩和できない。こりゃいかんわ。
 さて。その知人の話で私がいちばん恐かったのは次のようなもの。
 ある中小企業の経営者が小さなビルの二階に事業所を移転した。社員数名の小さな会社である。経営者は連日残業に追われる。引越し早々、もちろん残業である。普段の仕事に併せて引越しの整理もある。社員が皆帰ってしまってからも彼は事業所に残って仕事をやっていた。
 と、入り口の扉の向こうから小さな声が聞こえてきた。
「ひとつ登ってうれしいな」
 誰かいるのかと思い、覗いてみたが階下へと続く階段があるだけ。
 翌日もひとりで遅くまで残っていると、また同じくらいの時間に、
「ふたつ登ってうれしいな」
 階下から聞えるような声であった。覗いても誰もいない。悪戯だろうか。
 それから三日間は残業もなく定刻に帰宅した。
 その次の日、またひとりで残っていると、
「むっつ登ってうれしいな」
 前よりも近いところで声がする。
 更に翌日。この日はひとりの社員と一緒に残業をしていた。
「ななつ登ってうれしいな」
 居合わせたその社員もはっきり声を聞いた。経営者は彼に言う。じつはかくかくで、いつも聞こえるのだと。
「十五段ありますね」社員は階段を検分して言った。「この段数でしょうか」
 薄気味悪いが、まあ声がするだけであるし、あまり気にしないでおこう。そういうことになった。
 次の日も、その次の日も、声がする。数が増えている。
「ここのつ登ってうれしいな」
「とお登ってうれしいな」
 ここで、知人は言葉を切った。じろっと私を睨んでから「で、声が十四数えた次の日に、堪りかねて事務所を引き払ったんだって」
 気がつけば私は息をつめていた。
「……それで」先を促す。
「それでって」
「だから。それでどうなったんだよ」
「続きなんかないよ。事務所を引き払ったから後は判んない。落ちなんか、ないよ」と知人が言った。ここでいう「落ち」とは結末のことである。
 たいていの恐い話というのは解釈めいた結末がある。「調べてみたら昔、墓場だったんだってさ」「源平の古戦場なんだよね」のような合理的解釈である。もちろんそれらは科学的ではないが、少なくとも怪談としての合理性を有する結末ではある。しかし、この話にはそれがない。突き放されて終わりである。そこが無性に恐い。
「その声が階段登りきったらどうなってたんだろうね」
 ぼそりと彼は言うのだった。
 いやんいやん。  


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1998/08/12
文責:keith中村
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