第144回 ダンボ


 以前にもちらと書いたが、慣用句として使われる比喩の中には体の部分を動物に譬えるというものがある。かなり普遍的に使われているものには「羚羊のような脚」「鴉の濡羽色の髪」「白魚のような指」などがあるが、今書いたもののうち、羚羊はその形状、鴉はその色彩、そして白魚の場合はそれら両方を兼ねた喩えとして用いられている。
 もちろん、言葉は変容してゆくものである。例に挙げたうちでも「鴉の濡羽色」というのはかなり死語に近いものになっているのではなかろうかと思うが、また逆に、新たに作られるものだってある。
 すぐに思い付くのがこれである。
「耳がダンボ」
 新しいといっても、使われはじめてからもう十年以上は経っているであろうこの言い回しに、私はいささか眩暈のようなものを感じてしまう。
 先に示した分類でゆけば、この表現が色彩からの喩えでないことは明白であろう。なぜなら象皮色の耳を持った人はなかなかいないからだ。
「あんた、耳汚いわねえ。耳ダンボよ。ちゃんと洗いなさいよ」
という風に使われることはまずありえないだろう。
 ここで言うダンボとはディズニー映画のダンボである。ジャンボの息子であるところの仔象ダンボである。ご存じの方も多かろうが、ダンボは耳が大きい。映画ではあろうことか、その耳をはためかせて飛翔する。それくらい大きいのである。「耳がダンボ」というのは、つまりそこから採られた言い回しである。その意味では形状の比喩ということになる。
 だがしかし、
「朝起きたらねえ、耳がダンボだったのよ。あたし吃驚しちゃって。でもね。それで会社まで飛んで行ったからラッシュに巻き込まれなくて助かったわ」
 というのは誤っている。そういう際には会社ではなくむしろ医者へ行くべきなのだ。病院へ飛んでゆけ。ばさばさばさ。ぱおーん。
 この表現の正しい用法は以下のようなものである。
「こないだねえ、喫茶店入ったら隣りのテーブルでカップルが別れ話してんのよ。だけどね、聞こえてくる単語が妙なのよ。なんかねえ、ミドリムシとかジンバブエとかゲバゲバとかいってんの。変でしょ。あたしもう、耳ダンボになっちゃって」
 つまり、他人の会話などを、聞いていない振りで熱心に聞いていることに用いられる喩えであるのだ。
 ところが、よく考えてみるとダンボは目立って耳がいいわけではない。映画でのダンボの耳は専ら飛翔する目的に使用され、たとえば盗聴するとかそういったことには用いられていないのである。ということは、この言い回しは形状による比喩から一歩進んで「形状から連想される性質についての比喩」ということになる。単に耳が良いということを譬えるならば、もっと適したものもあるのだ。たとえばデビルマンだ。デビルマンの耳は、デビルイヤーなのである。
「初春や デビルイヤーは 地獄耳」という句は高濱虚子の代表作であるが、耳が良いというだけなら「耳がデビルマン」という方が的確ではないかと思う。ついでに書くなら、デビルビームは熱光線なのである。小林多喜二は蟹工船。
 話が逸れた。
 私がこの「耳がダンボ」に戸惑いをおぼえるのは、しかし実はそういうことではないのだ。私が困惑するのはただただ「ダンボ」という音の響きなのだ。考えてみれば「○ン○」という音はかなりどうかしているものが多い。
 たとえばマンボ。あるいはサンバ。はたまたルンバ。それにジンタ。
 どれひとつとっても、将来設計もなくへらへらと踊っているような印象しか齎さないではないか。
 殿下。駄目だ。小野寺昭じゃ仕様がない。
 文化。一見立派そうではある。しかし騙されてはいけない。なんとなれば文化の野郎は住宅とか包丁とかシャッターについたりもするのだ。眼をつぶって文化文化文化文化とくり返してみるがよい。サンボ少年がコンガを叩いて踊っている映像が脳裡に展開されるはずだ。サンボは「賢い人」という意味だ、などと反論してもあまり意味がない。絶版となった今では遅すぎるのだ。何の話だ。
 ともかく「耳がダンボ」は私に眩暈をひきおこすのである。かかるほどに「○ン○」という音は常軌を逸しておるのである。枚挙に暇がないので例示はこれくらいにする。もっと下品な言葉を期待している人もいようが、お生憎さま。うんこ、だの、ちんこ、だの、まんこ、だのなんて誰が書いてやるものか。 


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1998/08/07
文責:keith中村
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