第141回 インフレ


 インフレというのは経済に限らずあらゆるものごとについて発生しうるものである。たとえば麻雀という遊戯の得点計算は、戦前最低二十二点であったものが、現在ではルールにもよるが最低七百点あるいは千点ということになっておる。およそ三十倍から四十五倍ものインフレである。
 しかし、これなどはまだおとなしい方である。
 いつ頃からそうなってしまったのかは定かではないが、世に健康ブームというものがある。比較的最近の流行のような気もするが、思えばかつて紅茶茸などというものもあり、かなり遡れるものかもしれない。とにかく、気がつけば健康ブームはもはやブームとは言えないほど我々の生活に浸透拡散しているのであった。
「やあ、山田さん」
「これは田中さん」
「すっかり暑くなりましたなあ」
「こう暑いと鰻でも食べて精をつけんとやってられんですなあ」
「いいですなあ。なんといっても鰻にはビタミンA、B1、B2、D、Eが含まれてますからなあ」
「そうそう。視力恢復や骨粗鬆症にもいいようです」
 別段珍しい会話でもなかろう。道でばったり知人にあった時など、我々はこういう会話をやってのけるのだ。
 だがよくよく考えればこうやって、医者でも栄養士でもない人間が鰻に含まれる栄養素をさらりと言ってのけられるというのはちょっとしたものではなかろうか。それを受けて鰻が何に効くか即座に返答できる山田さんもなかなかの遣り手である。
「いやあ。しかし何といっても健康がいちばんですからなあ」
「まったくです。病気になんかなっちゃあ堪らんですよ」
「そうそう。病気は身体によくありません」
「その通り。ああ、身体に悪いと言えば、死ぬのもそうです。何しろ死ぬのは身体に悪いですよ」
「お互い気をつけなくちゃあいけませんなあ」
 世間話というのは、得てしてこういったかなり無意味な内容になってしまいがちであるから心しなければならない。
 話を元に戻そう。インフレのことであった。
 レモンという果実がある。さて、人がレモンと聞いて連想するのは、だいたいにおいてビタミンCではなかろうか。中には丸善とか爆弾とかそういった連想を働かせる人もいようが、それはかなり不健康な人である。健全な社会人であればレモンからまっすぐビタミンCを連想しなければならない。すべからくそうなのである。そんなわけで、世間の健康食品、健康食品めいた食品に含有される栄養素のうち、ビタミンCはいつだって「レモン何個分」という形容がなされるのであった。
 私が初めてこの形容を見かけたのは小学生の頃であったかと記憶する。飴か何かの包装袋に「ひと粒でレモン一個分のビタミンC」と書かれていたように思うのだ。私はかなり吃驚した。どういうことか。こんな小さな飴にレモン一個分のビタミンCが含有されておるのだ。レモンというとあれだ。来客があったときだけ母がちょっと気取って淹れる紅茶に輪切りになって浮かんでいるあの黄色いやつである。あの薄い輪切り、あれですら舐めてみると酸っぱい酸っぱい味がして、唇が、ちゅう、となってしまうあいつである。あんなやつが飴の中にまるまる含まれておるということか。
 しかし、それはただの発端に過ぎなかったのである。
 それ以降も敵はどんどんとレモンを送り込んできた。
「ひと瓶でレモン十個分のビタミンC」
「ひと粒でレモン五十個分のビタミンC」
「これひとつだけでレモン二百個分のビタミンC」
 このあたりで我々は異変に気づくべきだったのである。ちょっとおかしいんじゃないか、と異を唱えるべきだったのである。そもそもこんな小さな、何なら鼻の穴にだってやすやすと詰められる程度の大きさの中にレモン二百個は異常である。とんでもないことである。だいたいレモン二百個と言っても容易に想像できるものではない。漠然と、ああ一年分くらいだなあ、と想像する程度だ。想像したところでレモン一年分というのが何を意味するのかなど自分でもよくわからない。
 おそらくそれが、我々の踏みとどまるべき限界だった筈である。誰かが言ってやらねばならなかった筈だったのだ。
 にもかかわらず、とうとう我々はその一線を無自覚無批判に越えてしまったのである。
 先日、テレビを観ていると、出たのである。出てしまったのである。
「ひと粒でレモン一万個分のビタミンC」
 ものすごいことになっている。
 何しろレモン一万個なのだった。私の想像できる限界をとっくに超えてしまっている。子供の頃読んだ大伴さんの怪獣図鑑に「ゼットンのはく火の玉は、おんど1ちょう度だ。とてもあついぞ」とあり、子供心に「とてもあついぞ」なんて暢気なこと言ってられる程度じゃなかろうに、と呆れたものだがこうやってレモン一万個という現実に直面すれば、出てくる感想はひとつきりなのだった。
 レモン一万個はとても多い。
 馬鹿の意見のようだが、実際それだけなのである。多分、粒のまわりに付着しているぱさぱさの粉だけでもレモン七個分くらいにはなるのである。
 そんなものを一箱購入してくれば、これはもう少な目に見積もってもカリフォルニアで収穫されるレモンの総数よりも多いのではないかとさえ思える。かつてのレモン一個分程度で驚いていた自分が情けなくさえなってくるのであった。
 これだけ短期間に、これだけ集積度があがっているというのは、おそらくコンピュータのCPUがZ80からペンティアム2になったという話どころではなかろう。それにしても、一度にそれだけ多量のビタミンCを摂取しても平気なのだろうか。身体に悪いとか、死んじゃうとか、その辺のことは大丈夫なのだろうか。
 今も昔もレモンは無言のうちに人を懊悩させるのであった。 


新着順一覧 − 日付順一覧 − 前を読む − 次を読む − トップページ


1998/07/31
文責:keith中村
webmaster@sorekika.com