第138回 ある舌禍


 うわあ。まいったなあ。まだ怒ってやがる。どうすればよいのだ。
 そこは酒の場であったのです。参加者の半分はしばらく会っていなかった知り合い、残り半分は私にとっては初めての顔ぶれ。そういう場なのですよ。しかも私を除いた平均年齢は約二十歳という少年少女たちばかりであると思っていただきたい。どうしてそんな場に私という三十男が混入しているかは、くだくだしいので省略しますが、まあ人間長く生きているとそういう状況に遭遇することだってあるのです。
 私が少し遅れてその場に到着したときにはすでに宴会は開始されており、空いている席に座ったのですが、必然的に、私の知らない顔たちに名前を訊くという作業に移らざるをえません。互いに名を言って、「いやいやこりゃどうも。ひとつよろしくねえ」などと痴呆的な言葉を吐いたりするわけです。よく考えてみれば「ひとつ」というのはいったい何なのでしょう。そんなことはどうでもいいのですが。
 ことの起こりは、私の知らぬ顔を順繰りに進んでいった先にN子が座っていたということなのですよ。N子というのは最初に書いたうち「しばらく会っていなかった知り合い」に属する女の子です。
 この自己紹介しあってゆくという単調な作業の果てにオチを期待しない人がいましょうか。そうですとも。私がN子をオチに使ったとして、誰が咎められましょう。ひと通りの名乗りが終わったあと、私はさらにひとつ向こうに座っていたN子に向かって言ったのですよ。
「ええと。で、次は。……お前、誰やねん」
 ベルグソンが「知っている筈のことに知らぬ振りをすることで喚起される笑い」と分類している種類の冗談だったわけです。そんな分類、ほんとはありませんけれど。
 この言葉によって、単調作業を繰り返していた酒の場に、一応の笑いがもたらされたわけです。ええ。そうですとも。私のやったことは関西人なら誰だってやる種類のことでしょう。もちろん、この場合、言われた相手が「おいおい」とか「こらこら」とか、やや高度なものでは「あ。はい。私の名前は。……何でやねん」というボケ突っ込み乃至はダブルテイクと分類される反応とか、そういったものを示して完結するものなのです。もちろん私は以前からN子にその資質を十分に認めており、こいつなら突っ込んでくれるな、という予想のもとにボケたわけであります。
 ところが、どうしたことでしょう。N子は私がその言葉を言った途端に堅い表情に変わってしまったではありませんか。
 たまたま気分でも悪かったのでしょうか。うわ、やべえ、と思ったのですがとりあえず抛っておくしかありません。なあんか、睨んでいます。睨んでいますよ。N子は決して不美人ではないのですが、その睨んだ顔が怖いのです。私はかねがね女子の人には二種類いると考えております。怒った顔が可愛い人と、怒った顔が怖い人です。残念なことにN子は後者でありました。さらに困ったことには私は顔が怖いと恐いのです。以前、人形焼きの顔が恐いと書いたことがありますが、怖い顔が恐いのです。ああ。N子の名誉のために言っておきますが、決して彼女は人形焼き顔ではありません。せいぜいアイドル歌手を二回殴ったくらいの顔です。巷にはアイドル歌手を二十回ぐらい殴ったような顔も多いわけで、その意味では美人に属するといってもいいのです。でも恐いし。
 ああ。怒ってるよなあ。おかしいなあ。「何でやねん」と突っ込んでほしかったのになあ。
 いつしか座は古今東西などという遊技に興じることとなっていました。私は「うぉっしゃ。古今東西なら任せとき。おっちゃん、こう見えても大学んときは古今東西部の部長やったんやから」などと軽薄なことを言っております。もちろん、私としては冗談として言ったのですが、そこに集まっている人間の半分がたが、これに深々と頷いております。どうやらこの発言を信じている様子です。どうしたことでしょう。そんな部があるわけないではありませんか。君たち、そんなに簡単に人を信用しちゃいけません。最近の少年少女はどうも「三十歳以上を信じるな」という警句を知らぬ模様です。
 ごん。痛いいたい。トイレに立ったN子が私の後ろを通過する際に思い切り蹴飛ばしてくれたようです。むう。怒っとるな。しつこいったら。
 仕方がないんで、戻ってきたN子の隣に移動して、機嫌取りなどはじめました。くそ。
「よう。元気してんのか」
「別に」
 おのれ、誰に物言うてけつかるねん。そんなことを言うのはこの口かー、この口かー、と、ぎいいっと唇を引っ張って折檻したい衝動にかられますが、そんなことをすれば逆効果です。まず、反対側の隣に座っていた少年に、栓抜きを渡して「これで、何かしてみろ」。
「えっ。えっ」少年は当惑しております。
「しゃあないな。おっちゃんが手本見したろ」
 最近、おっちゃんという一人称が自然に使える自分が恐いのですが、それはまた別のお話です。
 少年から取り戻した栓抜きを耳に当てて「あー。もしもし」
 こうやって書いていて恥ずかしいくらい下らない芸ですが、酔っている人間を笑わせるには十分です。座は爆笑しております。ただし、N子を除いて。
「つまんない」ぼそっと、そういうことを呟きます。むむ。
 私は栓抜きを使った一発芸を連続して繰り出します。とりあえず、場は爆笑の渦ではあります。N子は笑いません。
 正直、疲れます。だんだんと腹が立ってきます。私はいったい何をしておるのでしょう。これが交際しておる女子の人であれば、いくらでも機嫌取りくらいいたします。しかも、付き合っておる女子の人であれば、笑わせる以外にも「もう、怒るなよ」などと抱きしめたりキスしたりという打開策があります。きゃあ。あるいは「もう、そろそろ機嫌直してほしいよなあ。んー、ところで、お腹が空いたでしゅねー」などと猫語で甘えて話を逸らすという手もあります。きゃあきゃあ。キースさんって、そんなことするの。はい。するんです。すみません。
 しかしながら、まさか赤の他人であるN子にそれらの作戦は使えません。ちょうど、街でやくざにからまれたときに、「そんなに怒るなよ」と抱きしめられないのと同様です。
 気が付けば、私は栓抜きを割り箸に持ち替えて、瞬間芸を続けております。
 頭に添えて「アリさん」などとやっております。我ながら情けないっす。
 おおっ。よっしゃ。笑った。N子がようやく笑いました。アリさん、ありがとう。私は「継続は力なり」という言葉を噛み締めました。
 N子は元来、ノリのいい子であります。私から割り箸を取り上げると、「あたしだって、できますよ」と瞬間芸を披露しました。すっかり機嫌は直っておるようです。やれやれ。よかったよかった。
 N子は二本の割り箸を頭の両横に水平に当てて「うわ。割り箸が頭突き抜けた」。
 座はまた大きく湧きました。
 しかし。……しかしです。私という人間はどうしてこうも馬鹿なのでしょう。ついつい言ってしまったのです。
「うわ。くっだらねえ」
 ああ。N子の眼が今再び三角になりました。私はどうすればいいのでしょう。


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1998/07/21
文責:keith中村
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