第134回 蓮華


 裕美という女の子がいました。僕も彼女も高校生でした。
 裕美はとても美しい少女でした。じっさい、彼女は綺麗だったんだけれど、けれども、あんまり笑わない女の子でした。いつも何だか退屈そうな表情をしていました。何だかつまんないなあ、っていう顔をしていたのです。
 僕はその頃、ジョン・コリアだとかジェームス・サーバーだとかジャック・フィニイだとかそんな小説が大好きで、裕美もそんな小説が大好きで、だから僕たちは何となく話が合いました。
「わたし、声優になりたい。声優になるって素敵だと思わない」
 裕美は一度そんな風に僕に訊いたことがありました。おかしな子です。僕は声優になるのが素敵だなんて、考えたこともありません。
「そうかなあ」と言うと彼女は、
「素敵よ」
 あい変わらずの、何だかつまんないなあ、の顔のままでそう言うので、だからそれはちっとも素敵に思っているようには見えません。おかしな子です。
 初めて彼女のうちへ行ったのは夏休みだったと思います。裕美はケーキを焼いてくれましたが、僕はそういったあれには全然詳しくありませんから、カステラのように見えるそれを指さして、
「これ、何ていうケーキ」
「パウンド・ケーキ」
「ふうん」
 僕は、ふうん、の後すかさず「あっ」と叫びました。
「どうしたの」
「じゃ、丸いのはラウンド・ケーキなんだな。なるほど、そういう仕組みか」
 裕美はそれを聞くと「その洒落、つまんない」
 本当につまらなさそうな表情でした。
 それから、僕たちはフェリーニの新作の話だか何だかをしていたのですが、不意に彼女が言いました。
「あのね。ケーキの中に棲んでいる虫を知ってる」
「なんだい、それ」
 時々裕美は冗談なのか何なのか判らない不思議なことを言い出すことがありました。
「ケーキの中にはね、虫が棲んでいるのよ。全部のケーキじゃないんだけれど、何十個か何百個かの中には確実にいるのね。でねえ、その虫は人間に食べられるのをじいっと待っているの。その虫を食べた人は、不幸になるの。とっても不幸になるの」
 僕は目の前の皿を見つめながら訊きました。
「このケーキはどうなんだろう」
 すると、裕美はくすくすと笑って、
「それはわたしにも判んない」
 やっぱり、何だかつまんないなあ、の顔のまま、でも声だけは、くすくすと笑ってそう答えました。
 僕は大袈裟に深々と頷いて、
「ううん。それは危険だ。危険だからあまねくすべてのケーキの生産を中止すべきだ。世の中からケーキをなくしてしまえ。何、構やしない。ケーキがなければパンを食べればいいじゃないの。でも」
 そこまで一気呵成にまくしたててから、
「むしパンだけは止したほうがいいな」
「それ、最高につまんないよ」
 裕美はほんとうにつまらなさそうな顔のまま、それでもクククッと笑いました。
 彼女のうちへは何度か訪れました。
 裕美と僕は、映画の話だとか、小説の話だとか、音楽の話だとか、そういう埒もないことばかりで時を過ごしました。
 裕美を初めて抱いたのも彼女のうちでした。
 時分どきに訪ねたのですが、
「今日、両親ともいないのよね。でもおなか空いてるんだったらカレーならあるよ」
 僕たちは向かい合ってカレーを食べ、食べ終わると彼女はまた「今日、両親ともいないのよねえ」と繰り返しました。そのあとすぐに「ありがちな科白よね」と付け加えました。
 僕は彼女にキスをしました。それから「新発売カレー風味です」と言いました。彼女は怒った眼で「こんなときは冗談言わないの」と僕を睨みました。
 ほんとは、僕はどきどきしていたのです。こんなことは初めてでしたから、冗談でも言わないといられないくらいどきどきしていたのです。裕美はこんなことは初めてじゃないようでしたが、それでもやっぱりひどくどきどきしていました。
 裸の彼女はとても小さくてとてもやせていて、ベッドの上で僕が動くたびに彼女から何だか白濁したさらさらがこぼれました。それは僕も裕美もあとで吃驚するくらいでした。
 裕美は「何、これ。冷たあい」とシーツの上にバスタオルを敷きました。すごく恥ずかしそうな顔でした。結局一枚じゃ足りずにバスタオルを二枚敷きました。僕たちはその上で、長いながいながい間何も喋らずに、じいっと手をつないでいました。
 裕美が突然いなくなったのは、本当に空の青い冬の晴れた日です。裕美の母さんが棺にすがって泣いています。映画を観ているような、現実感に乏しい記憶です。
 浴槽の中で両の手首を剃刀で切ったのだそうです。遺書はありませんでした。
 だから理由は判りません。その頃の裕美を思い出しても、全然そんな素振りなんかなかったし、逆に、何をしでかしても、いつ死んでも、ちっとも不思議じゃないようなところもありましたし。
 それに、その年頃の女の子の自殺なんて珍しいことじゃありません。人が聞いたら、よくあること、で片づいてしまうような話です。
 でも、どちらかというと僕にはこんな風に思えるのです。裕美のことだから、「浴槽の中で手首を切ると、お湯が真っ赤っかに染まって、それはさぞかし綺麗なんじゃないかな。きっと素敵だわ」なんて思いついて、思いついたらさっそく何とはなしに試してしまった。それだけのことじゃなかったのかな。そう思うのです。あるいは、そう思いたいのかも知れません。
 今でもときどき裕美の夢を見ます。夢の中の彼女は何故か十二歳くらいの少女になっています。十二歳の裕美は一面に咲き乱れる蓮華草の原っぱにしゃがんで、本当に楽しそうに笑っています。僕が実際には見たことがないような屈託のない笑顔で笑っています。そんな屈託のない笑いは多分もっとずっと歳をとってしまうとできないものなのでしょう。だから裕美は小さな女の子として現れるのだと思います。
 僕は、甘いものをあまり食べません。それでもときどきケーキなんか食べるとやっぱり裕美を思い出すことがあります。彼女が言っていたケーキの虫とやらを僕はもう食べてしまったのでしょうか。自分ではよくわかりません。
 いずれにせよ、蓮華草に囲まれ笑う裕美はいつまでもいつまでも歳を取らず、だのに、つらつらと時間は流れ、それに、

  愛するものが死んだ時には、
  自殺しなけあなりません。

 昔の詩人のその言葉だって知っているというのに、それでも僕は今日で三十歳になっちゃいました。正直、うろたえています。


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1998/07/12
文責:keith中村
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