第129回 はやい


「はやい」という言葉には時間的な意味での「早い」と運動的な意味での「速い」のふたつがあるのだが、もちろんこの両者はかなり緊密に関連しあった言葉であるからこそ、同じ「はやい」という語で表現せられるわけで、日常それほど厳密に区別をせずとも済む場合が多いしそもそも発語であった場合には単に「はやい」と聞こえるのみでそこに漢字は介在しない。それでもひとたび表記せねばならぬ状況になれば、やはりこの両者は厳然と区別されてしかるべきものであるわけで、間違えた漢字を宛ててしまうとどうにも困ったことになる場合だってある。
 ところで大阪はその違法駐車路上駐車の多さによって全国に悪名を轟かせておるのだが、そのため違法駐車路上駐車を禁止する旨の貼り紙警告も数多く見られる。特に大阪市内は無法地帯であり、道路沿いの各住宅商店の玄関入り口には文字どおり軒並み「駐車禁止」の貼り紙が施されており、しかしそれゆえその風景は余りに日常的になり過ぎてしまい駐車禁止の四文字はもはや何の効力も持ち得ない。そこで各住宅の住人商店の店主は国家権力の威光を利用することになる。
「この場所に駐車された場合には警察に通報します」
 大阪の人間はどうしたことか制服に弱い。先天的に制服を畏怖するような性質を有しておるのだ。それが証拠には車両内店内路上を問わず、平気で他人に話し掛ける大阪人が制服を着用している人間にはまったく話し掛けようとしないのである。たとえば見知らぬ駅にて自分が乗るべき電車がどれか判らなくなった場合、大阪の人間は隣で電車待ちをしている人間に「兄ちゃん、この電車、天下茶屋に止まるんけ」と訊ねることはするが、たとえ近くを通り掛かったとしても決して駅員には訊こうとはせず、そしてそれは駅員が制服を着用しているからに他ならないのである。
 であるから、「警察に通報します」という警告は制服を着用している人間についつい弱気になってしまう大阪の人間にはかなり効果的なものである筈なのだが、実際にはそうではない。というのも、普段あれほど制服を忌避している大阪人が駐車違反をとられそうなときだけは、どういうものか制服に喰らいついてゆく。この傾向は中年以上の人間に特に顕著に見られ、主婦の場合には「そんなん私だけちやうがな。みいんな、停めてはるやん。なんで私だけ取り締まるんよ。私ら、ちょと車停めてだいことなんば買うてただけやがなー。二分も停めてへんがな」、中小企業社長の場合には「ああ堪忍してえな。わし免停なってまうがな。免停なったらわしら明日からおまんま喰いあげやがな。爺さん婆さんとわしと嫁さんと餓鬼三人と犬と猫と金魚で揃って首縊らなあかんがな。殺生やで」が切り札となる。
 そんなわけで、大阪の違法駐車路上駐車はどうやってもなくなりそうになく、核戦争後すべての文明が滅び去ったあとでも違法駐車路上駐車だけは残るのではないかとすら思えてくるのだが、今日通勤途中に見掛けた駐車禁止の貼り紙の前で私は思わず立ち止まってしまった。
「この場所に車をとめないで。見つけたら速く警察に連絡します」
 出社してから飲もうと自動販売機で買った罐コーヒーを握りしめたまま、考え込んでしまったのである。
「見つけ次第警察に連絡します」という貼り紙はよくあるが、「速く警察に連絡します」というのはどういう具合にやるのだろうか。
 喋る速度がかなりなのかもしれない。
「ああ。もしもし。もしもし。警察でっか。ちょっとお巡りさん聞いてえな。また、停めてけつかるねん。え、何がて、うちの前やがな。違法駐車や、違、法、駐、車。はよ来てんか。駐禁とったってんか。なんやったらレッカーで引っ張ったってな。レッカーや、レッカー。しかしほんまにわてよう言わんわ。な、ほな、頼んまっせ」
 がちゃん。
 これだけ言うのに所要時間は二秒なのだ。かなりの速度である。フォーク・クルセイダーズをも凌駕する。果たしてお巡りさんが聞きとれるのやら。心配である。
 それとももしや、電話のボタンを押すのがものすごい速度であるのだろうか。
 一秒間に七十回ボタンを押せるのだ。一一〇番ならたった七十分の三秒であり、これは相当なものである。もうちょっと頑張れば「炎のコマ」も可能になるだろう。是非、頑張ってほしい。
 いや。違うな。確かに電話というのは現代でいちばんはやい伝達手段であろう。しかし、何というか視覚的にダイナミズムに欠けるところが難点である。地味なのだ。
 それでは自分で走るというのはどうか。韋駄天走りに駈け出すのだ。この疾走感には捨てがたいものがある。まさに「速い」である。警察までの四二.一九五キロをひた走りに走るのである。そして警察署に辿り着くと同時に「我、駐車違反発見せり」と叫んで倒れ込み、そのまま死んでしまう。人びとはあなたの勇敢さを語り継ぐことになるだろう。あなたを記念したレースができるかもしれない。おお、フィリッピデス。死んでも喇叭を離さなければもっといい。美談として後世の教科書に載ることは間違いない。ああ、木口小平。
 伝書鳩を飛ばすというもの考えられる。これはなかなかよろしい。「飛べよ、アラシ」などと叫んで屋根の上から鳩を放つのだ。ばさばさばさ。ぽっぽー。かなりダイナミックであり、「速い」という語感に似つかわしい。もしくは首に「駐車違反です。取り締まってください」と結わえ付けた犬を遣いに出すという手もないではないが、何しろ犬は馬鹿であるから近所の人びとから「あら、んまあ、お利口さんねえ」と頭を撫でられるたびに「はっはっはっ」と舌を出して尻尾を振ってしまうのでどうしても時間を喰ってしまう。やはりここは鳩しかない。
 ここまで考えて我に返った。いけない、会社に遅刻するではないか。
 そして、会社に辿り付いた私はまず買ってきた罐コーヒーを飲みながら一服する。
 コーヒー罐を見ると、こう書かれているのが目に入った。
「開けた後はすぐお飲みください」
 すぐ、か。
 そしてまた私は考え込んでしまうのであった。 


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1998/07/03
文責:keith中村
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