第122回 火の玉ロック


 だいたい大阪の平野部というのは瀬戸内式気候というやつで梅雨でもそれほど雨は降らないのだが、今年は別だ。この時期からやけに暑いので上昇気流でも発生しやすいのか、やたらに雨が降る。それも時雨のような大粒の雨が間断なく降り続くのだ。
 今日も朝から雨だったのだが、私は日曜出勤だった。定刻になったので帰ろうとビルを出ると、俗に盥をひっくり返したと形容されるような土砂降りである。もっとも本当に盥をひっくり返したならば、その盥ごと落ちてくることもあり得るのだが現実とドリフは違うのでそんなことはあまりない。
 私は歩いて通勤しているので、土砂降りになるといくら傘を差していても帰りつくまでにはずぶ濡れになってしまう。嫌だなと思ったが、かといって会社に残っていて余計な仕事を振られても災難なので雨の中を帰ることにした。大雨なので歩いている人はほとんどいない。けたたましいサイレンを鳴らして消防車や救急車が走り去ってゆく。
 ようやく私の住むマンションが小さく見えるあたりまで帰りついたころには、ズボンの下半分がびしょ濡れになっていた。それにしても物凄い大降りである。マンションの辺りを見るとあまりの雨のためか白く霞んで見える。それにしても消防車がよく通る日だ。
 あれ。行く手に消防車が山ほど停まっている。
 ふと顔をあげてマンションを見る。こんなに近付いているのにまだ白く霞んで見える。もくもくと。
 え。もくもく。
 なんだ、霧じゃないぞ。煙だ。
 煙。
 う。げ。火事ではないか。
 何だなんだ。どういうことだ。私のマンションが燃えておる。燃えておるのです。
 これはちょっとかなりなことになっておる。
 消防隊員が走りまわっている。マンションに梯子を掛けている。ホースなんぞ引きずりまわしている。
 私は呆然と立ちつくした。これはなかなか困ったことになっている。どうしたらいいのだろう。
 火の手があがっているのは二階で、私の部屋とは反対側の端である。
 気がつけば、私は後から後から続々とやってくる消防車に取り囲まれるように立っていた。消防隊員が怒鳴る。
「危険ですから離れてください」
「あのう。ここに住んでいるものですが、こういう場合はどうすれば……」
「とにかく退ってっ」
「は、はいっ」
 もしかしたら物凄く馬鹿な質問をしたのではないかという自己嫌悪に陥りながらその場を離れ、道をぐるっと迂回してマンションの入り口のある側へ移動した。火災報知器が狂騒的にじりじりじりと鳴り続けている。住人が向かいの建物の廂の下なんかに大挙して退去している。
 私もその中に交じってぼんやりと消火活動を眺めた。素人眼には小火ですみそうな様子である。
 それにしても火事とは驚いた。実を言うとこれだけ間近に火事を見るのは生まれて初めてである。それが自分の住んでいるマンションであるというのもなかなかのものである。なすすべもなくぼんやりと火事を見ていると、何やかやと下らないことが頭に浮かんで困る。
「うおお。俺は今猛烈に燃えているぞ。めらめらー」なんて叫んだらどうなるのだろう、などと思う。どうなるもこうなるも、袋叩きになることは必定である。あるいは、もし私が霊媒体質であって、この瞬間いきなりジム・モリスンに憑依されたらどうなるだろう。「カモン・ベイベ・ライト・マイ・ファイヤー。いえー」などと突然歌い出してしまったら。やはりこれも袋叩き間違いなしだ。
 いかん。私という人間はどうしてこうも馬鹿なのか。罷り間違えば私の部屋まで延焼しかねない状況で「ふぁいやー。いえー」というのもちょっとどうかしている。落ち着け。落ち着け。
 そう思って、胸ポケットから煙草をとり出して口に咥える。ライターを持った瞬間に気づく。はっ。火事なんだよな。煙草はまずいのか。いや、でもこの煙草で被害が大きくなるわけはないしな。うむ、しかし周囲の人の感情としてはどうなんだろう、火事場で煙草を吸う男というのは。アメリカ映画なんかじゃ、確か火事場でも吸ってたよな。などとあれこれ考えるが、よく判らない。きょろきょろ見回しても煙草を吸っている人はいない。とりあえず吸わないでおこう。
 一時間もそうやって立ち尽くしていたろうか。避難していた住人がぽつりぽつりとマンションに戻り始めた。鎮火しているのかどうか、判らない。私も取り敢えずその流れについていった。消防隊員は相変わらず走りまわっている。
 建物に入ると、二階に水を散布したせいで、エレベーターの扉の上からぼたぼたと水滴が落下している。いつの間にか警報は止んでいる。戻ってきた住人はしかし入り口のホールに溜まっている。
 近付いてきた消防隊員に私はおずおずと訊いた。
「もう、部屋に戻っても大丈夫なんでしょうか」
「ええ。大丈夫ですよ。多分」
 多分、って何だ、多分、って
 幸い、二階の一部が燃えただけなので、私の住む七階は無傷だった。廊下には未だに煙が立ちこめているけれど。
 いやはやしかし、昔から地震雷火事親父などというが、地震には九五年に遭遇した。で、今回が火事。落雷は体験したことがないが、雷ひとつ分くらいの電力は消費しているんじゃないかな、コンピュータで。ということは、残りは親父である。
 もうすぐ三十歳になってしまう訳だが、あっ、なるほど、それがオヤジか。
 むむ。それがいちばん恐ろしかったりして。   


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1998/06/22
文責:keith中村
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