第116回 顔が恐い


 朝顔の外へこぼすな竿の露。
 女性の方は知らないだろうが、男性用トイレでときどき見掛ける文句である。大都市の駅やビルの公衆便所にはほとんどなく、観光地の公衆便所に比較的よく書かれている。直截に表現すれば陰茎から迸る小便を便器の外にこぼすな、という意味である。尾籠な話で申し訳ない。
 いったいに用便に関する言葉には婉曲表現が用いられる場合が多いのだが、これはその極北に位置するといっても過言ではない。婉曲的過ぎて初めて見た人にはすぐには伝わらぬだろう。
 そもそも便所という言葉だって、手洗い、はばかり、化粧室、雪隠などという間接的な表現を使うのが普通である。
 これは英語でも同じようで、「用を足しに行ってきます」には 'Nature's calling me.' などという言い回しを用いるようだ。
 自然が私を呼んでいる。
 これはちょっとものすごい。婉曲というよりは、開き直りに近い気がする。「おれごん」という感じがする。あるいは「おくらほま」という感もある。乃至は「ろっきー」という雰囲気すら漂わせているし、あまつさえ「ぐらんどきゃにおん」だって脳裡をよぎる。すみません、ほとんど思い付きで書いてます、私。
 そういえば以前にアメリカ人に、' Where the fuck can I piss?' と言って爆笑されたことがあるが、これは「なあ、姐ちゃんよ、わし、どこでしょんべんしたらええねん。教えてくれへんけ」というのに近い表現なのだろう。農協の親爺が言いそうな言葉である。無茶苦茶言っていますね、私。
 ところで阪急電車の公衆便所には、

ちょっとの注意でいつもきれいなみんなの便所   駅長

という貼り紙があるのだが、これを見るたびに、少し空けて「駅長」とある部分に何やら奥ゆかしさ、わび、さび、のようなものを感じるのだ。

さみだれや大河を前に家二軒   蕪村

というのとかなり似ている。似てないか。
 便所ではこういった貼り紙をよく眼にするが、先日東京へいったとき、東京駅の喫煙コーナーにあった灰皿にこんな言葉を見掛けた。
「急ぐとも外に散らすな吉野山 桜の花も散れば見苦し」
 冒頭記した「朝顔の」と似ているのだが、煙草の灰をこぼすなという注意書きでこの種の凝ったものを見るのは初めてだったので、なかなか面白かった。東京へは滅多に行かぬのであるが、たまに訪れるとこういった発見があるので嬉しい。
 話は変わるが東京といえばやはり人形焼きである。誰が何といおうと人形焼きである。
 初めて明かすのだが、実は私は人形焼きが恐い。饅頭恐いの謂いではなくて、本当に恐いのだ。何が恐いといってあの顔だ。顔が恐い。人形焼きの顔はどうしてあんなにも恐く造ってあるのか。顔が恐い。食べたら承知せぬぞ、と頑なに拒んでいるようにも思える。顔が恐い。帰阪の際の手土産を買おうと東京駅構内をぶらついたのだが、土産の候補として人形焼きははなから外してある。あんな恐いもの一緒に新幹線の中で三時間もいられるわけがない。雷おこしにしようか、いやおこしなら大阪だって名物だしな、ではこのもんじゃ焼き煎餅というのはどうだ、ううむ、魅力的だな、などとぶつぶつ言いながら物色していたのだが、ふとこんな品物が眼に入った。
「キティちゃん人形焼き」
 素晴らしい。ついにこんなものまで流通しはじめたか。流石は生き馬の眼を抜く帝都である。箱の中には縦横に整然とキティちゃんの顔が並んでいる。まじまじと見つめたが、顔が恐くないのだ。ちっとも恐くない。なんとなればそれはキティちゃんなのだから。これなら私にも安心だ。顔が恐くない。大丈夫だ。キティちゃんの顔はかわいい。キティちゃんの顔はやさしい。キティちゃんの顔は猫の顔。王様の耳は驢馬のパン屋さん。いやしかし先ほど灰皿の貼り紙を真剣な顔つきでメモ帳に書き写したのは思い返せば尋常ではなかったかな。そんなことを呟きながら私はにこにことキティちゃん人形焼きを購入したのであった。
 それにしても東京というのはなんとなく気が落ちつかない。言葉が違うからかも知れない。水が違うからかも知れない。
 三時間新幹線に揺られて大阪に帰りついた。もっとも、本当を言えば新幹線はほとんど揺れないのだけれど。
 大阪は落ちつく。列車から降りればいきなり漂ってくるお好み焼きの匂い。
 地下鉄に乗り換える。
 車内の会話が耳に入ってくる。「でんがな」とか「まんがな」とか言っている。その上「なんでやねん」なんかも言っている。
 見わたせば、私の乗っている車輌だけで、タコ焼きの包みを抱えている人が八人いた。
 そして私はキティちゃんを抱えている。キティちゃんの顔なら安心だ。


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1998/06/11
文責:keith中村
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