第114回 正しい子供の殴り方


 最近は大人に殴られたことがない子供も多いと聞く。児童虐待やら暴力教師やらとマスコミが騒ぎ立てるせいであろう。昔の子供は父親や教師からよく殴られた。もちろん、私も殴られた。
 私の父親の殴り方はいわゆる軍隊式であった。「胸を張れ」「歯を食いしばれ」という命令のあとに、握り拳が頭に、がつん、と飛来する。これがまことに痛い。あとでさすってみると、大きなたん瘤がきっとできていたものだ。
 そういえば、以前は磯野家でも家長が長男を殴る光景がしばしば見掛けられたものである。以前、というのは長女が球形乃至は円形の食品を咽喉に詰まらせて「ん、ご、うぐ」ともがいていた時代である。それがじゃんけんに変わってからはほとんど知らないのだが、時代の趨勢というやつでそういった場面はほぼ皆無になっていることと思われる。
 近頃の大人には子供の正しい殴り方を知らぬ者が多い。たかが殴るという行為ではあれど、一歩間違えれば金属バットやらナイフやらで報復されかねぬこの時代、子供を正しく殴る方法を心得ておいても損はないかと思う。そこで今回私は「子供の正しい殴り方」をしたためようと考えるのである。願わくはこの文章が貴兄の児童殴打の一助にならんことを。
 さて、子供を殴るときにまず必要となるものは殴る理由である。いくら相手が子供であっても理由もなしに殴るわけにはいかぬ。もっともあなたは大人であるから、理由などはいくらでも作ることができよう。この際、注意すべきは、自分が私的に怒っていることを決して相手に悟らせないことである。たとえば、子供が家の中を走り回って騒々しいとかぎゃあぎゃあわめいて喧しいとかで落ち着いて巨人阪神戦を鑑賞できないのが怒りの直截の原因であっても「御近所に迷惑が掛かる」というのを怒りの理由にしなければならない。つまり、自分はあくまで社会的な制裁の代行者であることを示さなければならないのである。このとき併せて「お前が可愛いから怒るのだよ」という科白を附加するのも忘れないようにしたい。
 理由の説明が終わった。だがこれで早速、がつん、と行くのはまずい。そんなことをすれば、情動をコントロールすることができない野蛮な人間であると子供に思われてしまうかも知れないのだ。現代においては、すぐ怒るとかすぐ太るとかいったように自分をコントロールできない人間は落伍者であるという社会通念が存在する。子供からそんな風に認識されてしまえば、あなたの権威は地に堕ちてしまうだろう。だから殴るという行為もあくまで一連の手続或いは形式を伴って執行されなければならぬのである。
 手続きの第一は殴られるための心の準備を子供にさせることである。要するに今から殴るぞ、ということを布告するのだ。恐怖映画では、何の予告もなく怪物がいきなりわっと出てくるのは恐いけれど、「出るぞ出るぞ」という緊張感の末に出た方がもっと恐い。それと同じく、心の準備をさせることによって、恐怖を増大させてやるのだ。
 このときの布告の言葉が古典的には軍隊式の「起立せよ。足を肩幅に開け。胸を張れ。歯を食いしばれ」というものであるが、現代でこれをやると再軍備論者だとか戦争賛美派だとかいう糾弾を喰らいかねないので、別の言葉で代替すべきだろう。
「お、お父さんはなあ、悲しいぞお」「どうしてお前はそうなんだ」あたりが妥当な線である。
「喰らえ、正義の鉄拳」とか「いくぞ、お父さんパーンチ」などはふざけていることを子供に悟られてしまいやすいので、避けたい。
 ところでこういった言葉は、怒号として発せられる言葉でありそれゆえその意味はどの道明瞭には相手に伝わらない。それならいっそのこと意味などなくてよいのかもしれない。相手を萎縮させる機能だけあればよいのだ。
「ごんどらぞっちゃあ」
「ぶべっとぎる」
 要するにこんなものは「怒号」という記号である。濁音が多いと、ざらついた鋭角で狂暴な語感となり充分に目的の機能を果たしてくれよう。
 注意すべき音もある。何でも人間にとっていちばん安心できるやさしい音は「ま」であるという説があるようで、そう言えば母親は「ママ」である。確かにマ行の音はまろやかでマイルドな語感を持っている。宇宙人に出会ったら親近感を込めて「マ」と呼びかけようと主張している団体もあると聞く。こういった幸福な音は怒号には不向きであろう。
 それに半濁音にも注意したい。何とはなしに情けないからだ。
「まるぴぽにゃーん」
「ぷるぷるまみまみ」
 これでは殴るどころではなくなってしまう。
 即興に凶悪な語感の言葉を思い付くことが苦手な人は、
「ざんじばる」
「がらぱごす」
「ばるびぞん」
「ぞうあざらし」
などそれらしき語感を持った既存の単語を流用してもよいが、その場合うっかり、
「ぽんぬふ」
「ぴょーとる」
「まるちぇろますとろやんに」
「ぽりぷろぴれん」
など拍子抜けしそうな言葉だけは使わぬように気をつけていただきたい。
 怒号は終わった。その次にもうひとつ重要な儀式が控えている。
 それは、握り拳に息を吐き掛ける、という行為である。思い出してほしい。幼かったあたなを殴る前に父親は忘れずにそれをやっていた筈だ。あなたの父上は握った拳を今にも喰らいつかんばかりに開いた口に近づけて、「はああ」と息を掛けていたことだろう。
 ところで、ひとつ謝っておかねばならぬことがある。実はあれこれ調査したのだが、結局この拳に息を掛ける行為の謂れが私には判らずじまいであるのだ。一応、ふたつの仮説にたどり着いたのでここではそれを発表するに留めたい。
 ひとつには拳に精気を込めるためのものではないかということだ。すなわち、ここでの拳は単なる兇器ではなく、性根を叩き直すための道具で、ちょうど精神入魂棒と同じ働きをする。ゆえに、この行為は拳に「気」を入れる気孔術的な意味合いがあるのではなかろうか、ということ。
 もうひとつはやや近代合理主義的な解釈である。物質には低温で収縮し高温で膨張するという性質があるのはご存知の通りだが、拳はこの後子供の頭部という目標にかなりのモーメントで衝突することになる。このとき、もし拳の皮膚が低温で収縮しておれば、或いは衝突部位に裂傷や擦過傷を引き起こす可能性もある。皮膚が適切な温度によって弛緩しておれば、その危険をかなりの確率で忌避できる。つまり息を掛ける行為は、文字どおりウォーミングアップであるという仮説だ。
 私はこの文章を書くに当たって、古今のあまたの資料を紐解いてみたのだが、残念なことにこれらの仮説を証左するものを発見するに至らなかった。この問題の解明は今後の研究に委ねたい。
 がしかし、伝統的な行為というのは理由の如何に関わらず、それが伝統であるからというだけで踏襲されるのもまた事実である。伝統に則って、しっかりと息を掛けていただきたい。
 もちろんここでも注意点は存在する。
 息を吐き掛ける際には、表記するなら「はああ」という具合になる遣り方をもってせねばならぬのだ。
「ふう、ふう」と息を吹き掛けるのは、どことなく間が抜けているし、これが「ぷう」とか「ぴゅう」とか、あまつさえ「ぷっしゅー」だの「ぴゅるるー」だのになってしまうと明らさまに情けなく、やはり殴るどころではなくなってしまうだろう。
 ましてや、間違って息を吸い込むのはもっての他である。そもそも人が吸い込む動作を取るときの口唇の形状ほどみっともないものはない。なんとなればそれは「蛸です、ちゅー」などという按配になってしまうのだから。しかも、両の眼は対象物であるところの顔前の拳を注視することになるので、必然的に寄り目になってしまう。これでは、どうやっても「ひょっとこ」の物真似をしているようにしか見えない。恐懼する筈の子供だって、げらげらと笑い出してしまうに違いない。
 さあ、お待たせした。かかる錯雑煩瑣な手続きの末、準備は今や整った。後は力の限り殴るのみである。
 けれども、いよいよ殴る構えをとって、ふと前を向けば子供はするりとあなたの前を抜け出して逃げ去ってしまっている、というのも世の常である。
 遠くで両手を顔の横に添えて、「あっかんべえ」とか「べろべろばあ」などと言ってのけたりするのだ。
 子供という奴は手に負えんよ、まったく。  


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1998/06/07
文責:keith中村
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