第11回 霊視


 世の中には二種類の人間しかいない。霊が見える人間と、霊が見えない人間である。
 霊、というものがそもそも存在するかどうかという議論はここでは擱いておく。わたしの立脚するところは、「いちお、いないと思うんだけどね、うん。でも、恐がりだし、百物語のサイトなんか独りでいるときには絶対行かないし、怪談をさんざんしたあとなんかは電灯を点けっぱなしじゃないと眠れないしね。まあ、いないほうがいいよね」という立場である。それらしきものを見たことはない。
 見たことがなくても、積極的に信じる人もいる。ま、わたしとて写真でしか見てないのに地球が丸いって信じてるけどね。
 絶対に信じない、それ以前に馬鹿にしている人もいる。信じようが信じまいが怖いというものや場所もあり、たとえば兵庫県西宮の某所などは知る人ぞ知る名所で、これを読んでいる中にも「ああ、あそこか」などとピンとくる人もいるであろう、例の場所のことをわたしは言っており、そういえば貴志祐介の「十三番目の人格−ISOLA−」という小説にもさり気なくしかし確実にあの場所のことを書いているとわかるくだりがあって、わたしなどはたまたま満員電車の中でそこを読んだのだが、それでも戦慄が走ったものであるが、そんな場所にさえ夜中の二時に車で繰り出し、しかもそこに車を止めうろうろした挙げ句、ピースサイン出しまくりでばちばちと写真を撮ってきた豪胆というか大馬鹿者野郎というかがわたしの知り合いにもいるのだが、ばばば馬鹿野郎、おれはあんときほんとうに恐かったんだぞ、カーステレオが不意に故障しやがるしよお、まったく、こんな恐がりを連れてゆくんじゃねえ、などと突然学生時代に思いを馳せている場合でもない。
 今わたしが言いたいのはいる、いないの議論ではなく、見える、見えないという分類なのだ。
 見た、ではない。見た、という人ならあなたの周囲にもたくさんいるであろう。もちろん、たとえ枯尾花であったとしても、本人が見たと思う限りその人には真実なのであるから。
 ではなく、見える、と主張する人がいるのだ。つまり、コンスタントにオールウェイズにオールタイムに日常茶飯事に継続的に牛の涎的に常にのべつ幕なしに見える見えていると主張する人がいるのだ。芸能界では宜母愛子などという人がそうなのであるが、我々のまわりにもやはりいるのである。ああ、なんと嘆かわしいことか。お蔭で我々の平穏は乱されることになるのだ。
 盛田という知人がいる。彼が、見える、奴なのである。
 怪談に興じていたとしよう。盛田はぽつりという。
「ああ。いま、三体が天井あたりにふわふわ漂っています」
 げげ。あっさりいうなよ。
「ああっ、おまえの後ろに」というのはショッカー系怪談の常套句であるが、それで座がどわあと沸いたあと、盛田は言うのだ。
「よく解りましたね。いますよ、ほんとに。お爺さんかな」
 げげげ。そんなのありかよ。
 彼は言う。「はじめはね、幼稚園くらいの頃です。両親と神社に行ったんですけど、そこに植えてある樹という樹にね、人がぶらさがっているんですよ。で、変だなあと思って、父親になんであの人達は樹にぶらさがっているのかと訊くと、父は、そんなことはいってはいけない、普通の人にはあれは見えないんだから、って答えるんです」
 おおおお。遺伝するのか。そういうものなのか。皺のある豌豆と同じなのか。本当か。本当に本当なのであろうな。返答次第によっては手打ちにいたすぞ。
 大阪弁でいうところの「言うたもん勝ち」じゃないのか。誰にも立証できないんだから、言うだけならいくらでも言えるぞ。
 学生時代わたしが下宿していたアパートの一室の住人が、夜毎金縛りにあうということがあった。あるとき、不意に解けた金縛りから起き上がった彼は、部屋の隅に人影を見てしまい、堪りかねて盛田に相談した。
 彼の部屋を訪れた盛田は部屋の一隅を見つめたまま、開口一番こう言った。「……、こんなの、誰が連れてきたんだ……」
 げげげげ。恐いよお。こええよお。なんでそんなに恐いことばっかりいうんだよお。ほんとに見えてんのか。
「怪談してたんですよ。恐がりの田中もいて。そしたらね、ほんとうにいっぱい霊が集まってきてね。でも、それ言ったら田中のやつが怯えるから黙ってたんですけど。で、田中が便所に行くっていって部屋の扉を開けたら、上から逆さまにびろろおん、って男が田中の上に落ちてきて。もちろん、田中には見えてないんですけどね。それがおかしくって、おかしくって」
 わあああ。おかしくない、おかしくない。恐いぞ、それは。とっても。
 言うだけならなんぼでも言えるじゃないか、と思うのだが、こんなこともある。
 初めて行く土地にて、盛田、丘の向こうをさして、「なあんか、あの辺から妙な気配があがってきてます」、で、そっちに行ってみると古い古い墓地があるのでだ。ううむ。わからん。本当なのかなあ。
 ともかく、見える、という人間はかくも日常を擾乱するのであるが、思うに、霊が見えるというのは、見える族の特権階級である。
 ピンクの象が見えるとか、小さな大名行列が見える、などという人は病院送りである。ましてや、「あら。ここはどこかしら。うふふふ。お花畑じゃない。あああら、綺麗なお花がいっぱい。うふふふふふふふ」などというのはもっとやばい。筆者が幼少の砌、母親がよくこのパフォーマンスをやった。突然虚ろな眼になり、「あらあ、お花畑。てふてふが飛んでいる」などとやるのである。これは怖い。父親が煽りたてるように「ああああ。母さんが、母さんが狂った。お前、どうする」などというものだから、幼児のわたしは泣き叫んだものだ。確実にトラウマになってるぞ、あれは。新手の幼児虐待ではなかったか、父よ母よ。
 いずれにせよ、見えると困るものが見えるというのはまっとうな社会生活を阻むものである。いわく、ゴンタ君が見える、身長二十メートルの蓮實重彦が見える、包丁を持ったマクドのドナルド君が追いかけてくる、緑色の小さな火星人が見える、ゴーホーム、大きな蟹が見える、まあ、これは大阪ミナミにいけば見えるが、それから、紅白の体育帽をウルトラセブン被りにしている渥美清が見えるなどなど、これらすべては日常から狂気へと人間を導くものである。たとえ、見えたとて決して口外してはならぬもの、ならぬものなのである。
 ああ。それなのに。それなのに。どうして霊が見える人間は、憚ることなく見える見えるというのか。そして、我々の安寧な生活はまたしても震撼させられるのである。


新着順一覧 − 日付順一覧 − 前を読む − 次を読む − トップページ


1997/10/31
文責:keith中村
webmaster@sorekika.com