第108回 米国的冗談


 人間の情動の中では笑いがいちばん高級だという話があるとかないとか。高級だか低級だかは知らぬが、ともかくある種の笑いは高度な言語活動と密接に結び付いておるのは確かで、だからこそある言語を媒体とする笑いは、それを母国語とするものにしか本質的には理解できぬものであるのかも知れない。あるいは、笑いというものは地域性やら民族性やら宗教観を共有する者にしかできぬものであるのか。
 堅苦しい話から始めて恐縮であるが、どうやら私にはどうやっても理解できぬ笑いというものがあるということに気づいたのである。いわゆるアメリカン・ジョークというのがそれだ。陽気で率直なアメリカ人が会話の中に取り入れるユーモアと機智に富んだ潤滑剤。もう、聞いた人は例外なくラフィン・ナウト・ラウド、さあ、エブリバディ・レツゲッ・ハッピイ・トゥゲザア、あっはっは、フレッド、もうよしてくれよ、というあのアメリカン・ジョークである。誰だ、フレッドとは。
 アメリカ人がアメリカで好き勝手にアメリカン・ジョークを飛ばすのは構わないだろう。私もそれを容赦せぬほど狭量ではない。しかし、彼らは「郷に入りては郷に従え」という箴言を知ってか知らずか、他国へやってきても平気でアメリカン・ジョークとやらを発するのである。
 さて、ここにサミュエルという青年がいたとしよう。テキサス出身二十五歳のフランクな若者である。サムは日本語学習という名目の、しかし本当はほぼ物見遊山的観光目的的に来日したものと思ってもらいたい。
 とある休日、サムを伴って街へ出掛けたとする。サムはまだまだ日本語は片言しか話せないのであるが、以下はすべて日本語に意訳したものである。
「もう、昼だね。飯でも喰おうか、サミー」
「おお。食事かい。そいつぁグレートだね。で、どこで食べるんだい」
「ここなんかどうだろう」
「オー、ワッタヘル。このショウウィンドウに入ってるのはなんだい、キース」
「ああ。そうか、アメリカにはないんだったね。これは料理の見本なんだよ」
「腐ってしまうじゃないか」
「あはは、サミー。それは蝋やプラスチックでできているんだよ」
「なんだって。……本当だ。マーベラス素晴らしいザッツ・クール。日本人は手先が器用なんだね」
「ああ、喰った。喰った。ごちそうさま。ねえ、サム。味はどうだったい」
「サンクス・ロード。プラスチックの味がしなかったのは僥倖だったよ。あーっはっはっはっ」
「……」
「あーっはっはっはっ」
 どうしてアメリカ人というのはこう面白くもなんともないことを自分で言って自分でウケるのであろうか。
「ところで君のマムは相変わらず元気かい」
「オー。いたって元気だよ。先月なんか鎖をほどいて逃げ出しちゃってね。探し出すのに苦労したんだ。オー、シット。いけねえ。今のは飼犬のビリーの話だった。あんまり顔がマムと似てるんで間違えちゃったよ。あーっはっはっはっ」
「……」
「なあ、キース。今のは内緒だぜ。ビリーが聞いて気を悪くするといけねえからな。あーっはっはっはっ」
「……」
「あーっはっはっはっ」
 いくら愛想のいい私であっても、ここまで面白くない冗談にはたといお座なりなジャパニーズ・スマイルだって浮かべられない。しかし、相手の表情を読むなどということのできぬサミュエルは自分でウケまくるのであった。
「ところでキース。ここで謎謎だ。いいかい」
「ゴー・アヘッド」
「象が君のベッドの下に潜り込んだことは、どうして判るだろう」
「僕はエレファント・ジョークが苦手なんだ。判んないよ」
「オウケイ。答えはこうだ。寝ようと思ってベッドに横になったら、天井がやけに近くにある。あーっはっはっはっ」
「……」
「天井がすぐ眼の前にきてるんだぜ。あーっはっはっはっ。こいつはおかしいや」
「……」
 ここで私は思ったのであるが、つまらないことを言って自分で笑うというのは何もアメリカ人の専売特許ではないのではなかろうか。日本にもたしかにそれは存在する。そう、いわゆる「おやじギャグ」という奴だ。
「このプロジェクトにはいくらかかっていると思う」
「うーん。さっぱり判りません」
「なんと五億円だよ」
「げっ。そんなに」
「いいかい。五億円だ。五円を置く、じゃないんだよ。わっはっはっは」
 まあ、こういった上司にはやはり愛想笑いが必要となるわけであるので、それを必要としない分サムのアメリカン・ジョークの方がましであるという言い方もできるかもしれぬのだがな。
 それにしても、ねえ。 


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1998/05/23
文責:keith中村
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