第105回 バナナ


 マッキントッシュはバナナである。
 私が言おうとしていることはこの簡潔な一文に尽きる。そう。マッキントッシュはバナナである。
 私は何も、山口百恵は菩薩であるとか、ガチャピンは実はポール・マッカートニーであるとか、ジャイ子のペンネームはクリスチーネ剛田であるとか、そういったことを主張しようとしているのではない。もちろん私とて、危ない橋を渡るのはいつもガチャピンではないかムックお前もたまにはスカイダイビングでもしてみなさいもしやこれでギャラは同じなのか、とか、ジャイアンが剛田武の綽名に過ぎないというのにジャイ子はそれが本名であるのは一体いかなることか、などの社会的矛盾に眼をつぶるほど卑劣漢ではない。ただし残念なことに今はその議論をしている時間がない。
 目下の急務は以下のテーゼを証明することである。
 すなわち、マッキントッシュはバナナである。
 いやあんバナナだなんて、エミリーまだわかんなあい、そんなのママに叱られちゃうわ。
 おっと、またしても現われやがったな、エミリーめ。しかし、そんな風に誤解してもらっては困るのだ。私はいやらしい意味で言っているのではない。
 マッキントッシュはバナナである。
 と言っても、吉本隆明の娘のことを書こうというのでもない。字義通り捉えてほしい。マッキントッシュはバナナである、と。
 故郷に錦を飾らんと地方から都会へ出てきた人間には理解しやすいかと思うが、次のような経験はおありではないか。
 正月などに帰省したとしよう。久し振りに一人息子の顔を見た母親は頗る機嫌がよろしい。喜色満面であれこれと話しかけてくる。
 道混んでなかったか、ほう、そうか。正月前やさかいな、ほんまにえらい人やろ。えらい人いうても賢い人ちゃうで。わはははは。あんた、バナナ食べへんか。さっき農協行てきたら、ええバナナあったんや。ほれ、そこの水屋に入っとやろ。な、ええバナナやろ。何。何て。ああ、これかいな。テレビの通販で買うたんや。ご飯入れて、ほれ、このタイマーあるやろ、これな、セットすんねん。セットや。ほてな、セットして五分経ったらあんた、お粥さんが案定できてはりますねん。便利やろ。それにな、これ買うたらな、包丁研ぎ機いうのもおまけで付いてきよったんや。ええと、どこ行てもたかな。ええとやな。ああ、あった。あった。これこれ。これが包丁研ぎ機や。ほれ、見てみいな。ここのこれな。ここに包丁をセットすんねん。セットや。ほてな、セットしたら勝手に包丁研ぎよるねん。便利やろ。便利便利。それよりあんた、バナナ食べへんのか。バナナ。おいしいでバナナ。え。要らんのか。何。後にする。さよか。ところでなあ、ケンちゃんお嫁さん貰いてんで。え。ケンちゃん言うたら青物屋さんとこのケンちゃんやがな。あんたより三つ下やったかな。そうそうそう。よう洟垂らしとったケンちゃんや。立派なええ若い衆になってるで。農協に就職しやってな。何。でっかいテレビやて。ああ、それか。こないだ買うてん。衛星入ってんねんで。衛星。仰山なこと映るで。目茶仰山や。何。ああ、そのビデオか。それこないだ衛星でやってた言うてお父さん録ってはった奴かな。え、観てええか、て。何それ。麦秋。あんたそんな古い映画観ますんか。変な子やな。ええんちゃうか。あ。お父さん録画セットしてはったんとちゃうか。セットや。あんた、それ観るんやったらセットおかしな事なれへんか、セット。え、大丈夫なん。後で直しとくんか。ほん。あんた観ながらバナナ食べ。おいしいでバナナ。え。要らんのか。何。後にする。さよか。ほんでな、ケンちゃんやけどな。東京の大学で知り会うたいう娘さんと結婚しいてな。青物屋の裏に偉い立派な離れ建ててもうてな、そこに住んでるねんで。それが綺麗な嫁さんやで。なんや、この眼えがな、眼えが大きいてな。そらもう、顔中眼えや。関東弁喋りはんねん。眼え大きいてな、そんで関東弁やねん。何や知らんけど凄いことやろ。ところであんた、どんな子が好みなんや。え。知らんて。知らんことあれへんやろな。どうでもええて。どうでもええことあれへんやろな。大事な話やないかいな。人間いつまでもふらふらしてたらあかんにゃで。そろそろあんたも結婚真剣に考えんとあかんで。こっち帰ってきいひんか。仕事やったら農協あるがな。前の町長さんに口きいてもうたら一発やがな、そんなん。ところであんた、バナナ食べへんのか。バナナ。おいしいでバナナ。え。要らんのか。何。後にする。さよか。
 どうしてこんなにもバナナを勧めるのであろうか。これには彼女たちの世代が生きてきた時代を考慮せねばならない。そう。昔バナナは高級品であった。昔バナナは人びとの憧れ、希望の星であったのだ。人は誰しも「俺も出世して、うはうは笑いながらバナナを腹一杯喰えるようになってやるのだ」と夢を持って暮らしていたのだ。日本の戦後復興、そして高度経済成長を陰で支えてきたのはバナナへの憧憬だったのだ。陰の立役者、それがバナナなのだ。モチベーションとしてのバナナ。あなたには私の意見が大袈裟に聞えるかもしれない。実は私だって書いていて大袈裟であるなあ、と感じる。だが、行きがかり上、後へは引けぬのである。とにかく、昔バナナは高級品であった。農園のダイヤモンドであったのだ。
 さて、マッキントッシュであるが、これもまた昔は高級品であった。貧乏人には到底手の届かぬ高嶺の花。それがマッキントッシュであったのだ。人がひいひい言いながら三十六回払いの月賦で買った国産機を使っている頃に、「僕さあ、マックユーザーだからあ」などと選民意識を満足させつくし所有者を増長させつくした機械、それがマッキントッシュなのであった。
「一度見においでよ」などと言われて訪れた先で、如何にも高級品然と鎮座していた計算機、それがマッキントッシュであった。
「た、た、高かったんだろうねえ」「なあに、たかだか百万円ちょっとさ」「ひゃ、ひゃくまんえん」
 実際、当時のマッキントッシュはちょっと周辺機器やパーツを追加すると平気で百万円を超える機械であったのだ。それも当時の金で百万円である。
 かつて日本国内で存在していた国産機対マッキントッシュ確執の構造は紛れもなくプロレタリアート対ブルジョワジーという階級間闘争の構図であった。はっきり言おう。国産機所有者のマックユーザーへの悪口讒謗罵詈雑言は間違いなく「貧乏人の僻み」であったのだ。
 こういうことがあった。大学時代、医学部に在籍する友人がいたのだが、彼が大学附属病院の研修医となったその年、私はその友人を訪れた。と、なんとそこには Quadra 840AV があるではないか。
「こ、こ、これはっ。くあどら、ではないかっ。ど、ど、どうしたのだ、こんなもの」
「はっはっはっ。流石に医者ともなればこれくらいやすやすと買えてしまうよ」
 その帰り道、私は「俺も出世して、うはうは笑いながら、くあどらをやすやす購入できる身分になってやる。やすやす」と夜空の星に誓ったものだ。
 そして時代は変わった。今やマッキントッシュは高級品ではなくなったのだ。私は結局ちっとも出世していないけれど、それでもマッキントッシュをやすやすと購入できる時代になってしまったのだ。新品ですら、そうなのだ。ましてや中古品においてをや。
「おお、SEが一万三千円ではないか」「何。Siが七千八百円だと」「わっ。LC630がこんな値段でいいのかっ」
 かつてどう足掻いても絶対に買うことの能わなかったマッキントッシュが小遣い銭で買える価格になっている。そして今私の部屋には都合七台のマッキントッシュが犇めいている。それもほぼすべてが68kの中古である。すでに現在では実用に耐えないものどもばかりである。
 まるで私は。まるで私は「ああ、おいしいよお。おいしい。もりもり」などと涙を流しながらすでに高級品ではなくなったバナナを腹一杯貪り喰っているようなものではないか。
 ゆえに私は主張するのであります。
 マッキントッシュはバナナである、と。


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1998/05/16
文責:keith中村
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