第104回 洋行帰り


 最近ロラン・バルトの「表徴の帝国」を読んだ。大変面白かった。
 などと書くと、お前バルトなんか読んで本当に判ってんのか、恰好つけてるだけじゃないのか、という声が聞こえそうだが本当に面白かったのだ。ただし作者の意図するところとはまったく別のところで。
 たとえば、「日本人の顔はその表徴を失い西洋への変容期に入っている」なんていう記述のところに例として写真が掲げてあるのだが、これがタイガースのジュリーとサリーである。ジュリーはまだよい。だが、いかんせんサリーは。サリーなどと言っておるが要するに岸部一徳ではないか。あまつさえ岸部四郎の兄なのだ。ああ、ルックルックこんにちは。どこから見ても日本人顔だよ。ロラン・バルトの眼は節穴か、全く。
 もっと興味深いことには、この著書には日本の俳句がいくつも引用されておるのだが、原典をそのまま引いているのではなく翻訳してある。つまり、日本語からフランス語に翻訳されたものをバルトが掲げる。それを訳者が再び日本語にする、という過程を経た俳句が載っているのだ。

 一例を引くと、芭蕉の

   山路来て何やらゆかしすみれ草

 というのが、

   山の小径を通ってわたしは出会う、
   ああ、えもいわれぬものよ!
   菫の花!

 こんなにも変貌を遂げてしまうのであった。おお可哀想にこんなにも変わった姿になっちまって、などという感慨を覚えてしまうのである。
「ゆかし」が「えもいわれぬ」にコンバートされてしまうのもどうかとは思うが、何よりこの短い中に二つも出てくる感嘆符がただ事ではない。我々はよく洋画を観ては、何もあんなに大袈裟に振舞わなくてもいいじゃないか、という感想を持つものであり、昔の吉本新喜劇ではしばしば浜裕二(現チャーリー浜)が洋行帰りのオーバーアクトで気障な人間を演じていたが、俳句だって洋行帰りではどうもオーバーになってしまうようである。
 この点に着目したものには、既に宮沢章夫さんのエッセイとか、高橋源一郎さんの最近作「ゴーストバスターズ」などがあるので、私が今更いくら書いても二番煎じにしかならないのであるが、それにしてもやはり自らがこうやって遭遇するとなかなか面白いものである。

   初雪を見てから顔を洗ひけり    越人

 これが、

   わたしは初雪を見た。
   その朝わたしは忘れた。
   わたしの顔を洗うことを

 などと変わってしまうのである。たった三行しかないのに「わたし」が三回も使われているのも尋常ではなく、語り口もなにやらおどろおどろしげであり、

   わたしはふと鏡を見た。
   おお、そこにはわたしではなく
   巨大な毒虫が映っているではないか!

 などと不条理小説へとつながってゆきそうな趣がある。そもそも原典では顔を洗っているんだから、誤訳ではないのか。

   すでに四時……
   わたしは九回起きたのだ、
   月を賞でるために。

 これは、芭蕉の「こゝのたび起きても月の七つかな」であるが、「四時……」という思わせぶりな部分が何やらゴシック・ホラーじみて無気味である。
 ご存じのように俳句に対する関心は海外でもかなり高い。しかし私は実情を全く知らないでいたのである。海外における俳句の解釈というのはもしかしたらものすごいことになっているのではあるまいか。そう思った私はさっそくウェブ上にて海外の俳句サイトを検索してみた。あるわあるわ。文字通り掃いて捨てるほどある。いくつかじっくり眺めてみたがやはりどこが俳句なのだよ、と首を傾げてしまうようなものばかりである。
 そんな中で 'Japanese Signs' というページを発見した。どうやら東京の路上にて撮影した「日本語の標識」の写真をたくさん紹介しているページのようであるが、その中に 'A Haiku' という項目があったのだ。はて、どうして道に俳句が掲げてあるのだ、と訝しみながら見て吃驚した。案の定ものすごいことになっておったのだ。
 これが俳句だ、と写真が添えられているのだが、これがどこから見ても俳句でも何でもない。

   若い芽を 育てる環境 街づくり   大塚警察署・大塚防犯協会

 ただの標語ではないか。だが、このページの作者にはこれが「俳句」に見えるようなのだ。英語ハイクの基本に則って三行詩に訳している。

   An environment for growing
   Young buds --
   The making of a good neighborhood.

 拙い私の英語力で再び日本語に訳してみる。

   未熟な蕾!
   大きくする環境
   おお、よいご近所さんを作ることよ

 どうしてそんなに鼻息が荒いのだ、落ち着けよ君、という風になってしまうのであった。
 更にこの後には鑑賞文が付けられている。これも拙訳ではあるが紹介する。

   逆に言えば、「未熟な蕾」という慣用句でしばしば表現される若者たちがまっとうに育ってゆくのを監視することで、よいご近所さん関係は形成されるのである。
   日本語を母国語として喋る人間に意見を聞いたわけではないのだが、それでも私の興味を引くことは、この俳句はすべて原日本語たる「ヤマトコトバ」のみで作られておることで、惜しむらくは「環境」というのが漢語の熟語であること。画竜点睛を欠くといったところか。

 なんとなく大岡信さんの「折々のうた」を彷彿とさせる。日本人でもあまり知らない「大和ことばのみで構成されるべきである」という伝統を知っているのはちょっと凄いのだが、残念なことにそれは和歌の伝統である。

   元朝の見る物にせん富士の山  宗鑑
   鳳凰も出でよのどけきとりの年  貞徳

 ちんたらした大和ことばなんて使っていられないという字数の制限から来るものであろうが、すでに山崎宗鑑、松永貞徳あたりの時代から誹諧では何の抵抗もなく漢語を使うものなのだ。
 いや、しかしそれよりも何よりも、「逆に言えば」などと大見得切って鑑賞するようなものではないだろう。ただの防犯標語じゃないか。誰か言ってあげる人は周りにいなかったのか。そうか、いなかったのだな。
 この分じゃ、「気を付けろ 注意一秒 怪我一生」なんていう標語だって、

   Watch out!
   being careful takes one minute
   being wounded a whole lotta time

 なんて翻訳してから解釈しかねない。何とも大袈裟である。
 刮目せよ、皆のもの。


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1998/05/12
文責:keith中村
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