第102回 いい人なのに


 昔は「いい人」というのは褒め言葉ではなかったのです。でしょう。考えてみてください。「いい人」にいちばん結び付きやすい言い回しは「なのに」ではないですか。
「いい人なのにねえ」
 要するに「いい人」というのは、何の取り柄もなくどうしようもない人間に対しての最小限の評価ではありますまいか。
「いい人なのに仕事ができない」
「いい人なのに酒乱である」
「いい人なのに社会性がない」
「いい人なのに禿げている」
「いい人なのに鉄道模型に凝っている」
「いい人なのに女子の人にもてない」
 こういった言葉を吐くとき、話し手は薄ら笑いを浮かべていたものでした。そもそも本質的に悪である人間なんてのは、そうそういるもんじゃないから「いい人」というのは極めて当たり前の評価であるのですが、その言葉を免罪符にしながら「仕事ができない」とか「酒乱である」とかいう烙印を押す、これが「いい人」という言葉の使われ方ではありませんでしたか。話し手に邪気があろうとなかろうと、確実にある種の揶揄や軽蔑を内包している言葉、それが「いい人」だったように思うのです。
 ところが最近はどうですか。私の感じるところ「いい人」というのは最大限の賛辞になっているように思われる。「いい人なのに何々だ」ではなくて、「何々なのにいい人だ」という使われ方をすることが大変多くなっているように思うのです。
 いちばん多く使われるのは「悪そうに見えて実はいい人だ」というやつですね。
 あるいは「ロックなんかやっているのに実はいい人だ」というものです。
 まあ、昔は「ロック」イコール「悪」でしたから、この二つの言い回しはほぼ同じものなのでしょうが。
 この言い回しにいちばん似つかわしい例は横浜銀蝿でしょう。まあ、彼らは意図的にそう見られるように演出していた部分が大きかった。「オレたちはこんな馬鹿やってるけど、でもしっかり考えてるし」などという言い方でよく青少年問題などを口にしていたのを憶えています。
 そもそもロックというのは叛逆の音楽ですよね。ははは。書いてて恥ずかしい言葉ですが。もう、そんな文脈での「ロック」は消滅しましたしね。
 でもかつてはロックというのは反社会的なものだったのです。ドラッグに溺れて野垂れ死んだロッカーは枚挙に暇がありません。そりゃ、それはいいことじゃないでしょう。だけど、「善とは本当に善か。悪とは本当に悪か」というテーゼを呈示するのがロックの機能だったと思うのですよ。この意味においてロックと文学は等しい機能を持っていたのです。「それは良くないことじゃないか」と糾弾して、はい、お仕舞い、では単なる思考停止ですよね。
 おそらく我々は最近とても保守的になってきたのでしょう。「善」というとてもうすらぼんやりした概念に寄り掛かって、それに叶うものは許可、そうでないものは不許可、てな風潮になっておるのでしょう。
「酒や酒や。酒持ってこんかい」の初代春團治(正確には二代目らしいのですが)がもし現在生きていてもとうてい芸能人として正当に評価されなかったでしょう。あ、そうそう。何もそんな例を出さなくても現在のマスコミは実際横山やすしに引導を渡しましたよね。
 私は思うのです。いくら悪人であっても才能があれば評価すべきであると。逆にいくら善人でも才能がなければ評価すべきではないと。
 想像してください。とてもいい人なんだけど妥当な判決を下せない裁判官とか、とてもいい人なんだけど英語が苦手な英語教師とか、とてもいい人なんだけどよく拳銃を誤射する警察官とか、困りものですよ。それらはやはり「無能」と言い切っていいのではないでしょうか。
 特に芸能人に対する評価として「実はいい人」というのが増えているように思います。
「面白くないけれど実はいい人であるお笑いタレント」
「演技が下手だけど実はいい人である俳優」
「歌は下手くそだけど実はいい人である歌手」
 どうしてそこまで考えて評価してあげなきゃいけないのでしょう。面白くないお笑いタレント、演技の下手な俳優、音痴の歌手というのはそれだけで失格でしょう。
 プロフェッショナルというのは、その才能において判断されて然るべきだと思うのですよ。お笑いタレントなら面白いか面白くないかの判断でいいじゃないですか。ギタリストなら上手いか下手かの判断でいいではないですか。やや語弊のある言い方ですが、軍人ならどれだけ敵を殺したかが評価の対象となって当然でしょう。
 ところで。
 エックス・ジャパンのヒデという人が亡くなりました。ちょうどその事件のあった日だか翌日だかのことですが、電車に乗ると向かいの席に女子高校生らしき二人が座っておりました。ひとりはさめざめと泣いております。もうひとりが必死に慰めている。何だろうと思い、さり気なく二人の会話を聞いていましたら、泣いているほうの娘が「あんなにいい人が死んじゃうなんて」などと言っています。知人でも死んだのかな、と思いながらよく聞いているとどうやらヒデという人のことを言っているではありませんか。いや、それが悪いというのではありません。熱狂的なファンなら泣くほどの衝撃を受けて当然でしょうし、その気持だって想像できます。ただ、その女の子が泣きながら隣りの友人に訴えているのは「父親が私がどうして泣いているのかちっとも理解してくれない。ヒデがいかに素晴らしい人物であったか、馬鹿な父親はさっぱり解っていない」という主旨の内容だったのです。
 連休中だったので、普段あまり観ないテレビをちらほらと見る機会があったのですが、そこでも勿論このヒデという人の自殺は取り上げられておりました。この死んだミュージシャンには「骨髄バンクへの登録を積極的におこなった立派な人物」という言い方が評価の中心になっていました。
 私はエックス・ジャパンというグループがどんな歌を歌っていたか、このヒデという人がどんな風にギターを弾いていたかは全く知りません。すでにそういう年齢ではなくなってしまいましたから。それでもエックス・ジャパンというのが物凄い人気であったことくらいは知っています。そして、それほどの人気があったのなら、間違いなく人びとを惹きつける才能を持っておった訳でしょう。でも、私が知る限りヒデという人を死後その点で評価している人や媒体はないのです。
 ジミヘンの、ジョプリンの、ジム・モリスンの死を惜しむ人は多い。それらの人は、「大いなる才能を持った人間の夭逝」を悼んでおるのです。誰もジミヘンについて、「あんないい人が夭折するなんて」などという言い方はしていません。才能を悼むのです。そして、それが音楽を生業としていたものの死への極めて正しい方法での鎮魂となるのではないでしょうか。
 まあ、私とは無関係の死です。ヒデという人の顔だってよく解りません。そんな私がいうのもおかしいのでしょうけれど、「彼のギターは最高だった」くらいのことを言えるファンはいないのでしょうか。それがギター弾きへの供養というものではないでしょうか。それとも「いい人だから好き」などというファンばかりだったのでしょうか。
 それなら、ちと寂しいことだな、と思うのです。


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1998/05/07
文責:keith中村
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