第100回 物語


「サア、お次ぎはお前さんの番だよ」
 促されて顏を上げると、丁度いま九十九本目の蝋燭が吹き消されたところである。ぼんやりと火口から立ちのぼる烟りが薄暗きにも不思議と鮮明に見へる。
「オヤオヤ、愈ゝ百番目のお話ですナ」
 初めから參加者の中では一等巫山戲た風情であつた中年の男が茶化すやうな口調でさう言つたが、心なしかその聲も顫へて。
「モウ充分だ。止しといたはうがよいのではありませんか」
 いちばん臆病な腺病質の若者が誰に言ふともなくさう呟いて昏い天井を仰ぎ見る。
「何言つてるの。今さら止すわけになんかいきやしないワ」
 紅一點の娘が鋭い聲をあげる。虚勢を張るためにわざと蓮つ葉な喋り方になつてゐる。
 私は車座になつた參加者を均等に見遣つてから重々しく口を開いた。「サテ、それでは――」
 眼前にはたうたう殘り一本となつた蝋燭がゆらゆらと搖らめいて、はためいて。
 そして誰かがごくりと咽喉を鳴らす。

 風呂場といふのはじめじめして薄暗くつて、思へばあまり氣持ちのよい場所ではございません。髪を洗つてゐるときに何故か妙に背後が氣になるといふのはみなさん覺へがおありでございませう。
 あれは私がまだ書生であつた頃でございます。夏期の休暇のあひ間に私が所屬してゐた倶樂部で合宿をゐたしました。合宿と申しましても運動部みたやうな嚴しいものではなく、どちらかと云へば氣輕るな温泉旅行といつた體のものでございます。はい、私が所屬してゐたのは活動寫眞を自主製作するといふ倶樂部でございました。
 サテ、その夏我々が赴いたのは紀州でございます。
 今ぢやキネマなんてものはすつかり廢れてをりますが、當時はそりや、キネマ人氣が高くて。我々の倶樂部にも部員が七、八十人は居りました。田舍に歸省する者やら用があつて來られないものを除いても參加者は五十名近くありましたでせうか。かなり大所帶の旅行でございます。
 海水浴やら名處の觀行やらを樂しんだあと宿に着き、食事も濟んで、といふ時間でございましたでせうか。それでは入浴やら何やら濟ましたあと、また宴會場に集まるべしといふことでひとまず散開となりました。私も露天風呂にてひと風呂浴び、浴衣になつて涼んで居つたのですが、そこへ惡友二人がやつてきて、かう言ひました。
「オイ君。だうやらあちらの方に女風呂があるやうだぜ。ひとつ、覗きにでも行つてみないかい」
 お恥づかしい話ですが、まだまだ若かつた私は一も二もなくその話に乘つかりました。それで三人でこそこそと人目を忍んで女風呂の方へ向かつたのでございます。
 男風呂と同じく女風呂も露天となつてございました。もちろん、外からおいそれと覗けるやうな仕組みにはなつてをりませんが、かういふことには頭の働く我々は其處こゝと偵察する内に死角となつてゐる生垣を發見ゐたしました。生垣の向かふに女風呂が一望できる處を見つけたのです。我々は徐かに徐かに身を乘り出して女風呂を覗き込みました。
 アゝ、何と言ふことでせう。私がそこに見たのは私が密かに焦れてゐた活動寫眞倶樂部でいちばん美しい女性その人ではございませんか。その人が洗い場にちよこんとしやがみ込んで身體を洗つてゐるのです。身體中にシヤボンを纏ひながらその人は如何にも優雅に如何にも可憐に見えました。あらうことか、その人の乳房さへ無防備にも私の目の前にさらけ出されてゐるのです。ホンの二間ほどの距離をへだててその人はシヤボン以外何も身に纏はずにゐるのです。
 否。誤解されては困ります。誓つて申しあげますが、私はその時劣情など一切催さなかつた。漆黒の髪、美しい稜線を形作つてゐる乳房、たおやかな肩、それらは私に慾情を催させる餘裕すら與へなかつた。私はただほんたうに美しいその光景に心を奪はれてしまつたのです。アフロヂテやらヴイナスやらという女が假に實在するなら、ちやうどあんな風なのでせうね。私は、そして惡友たちは、本統に無心に見とれてをりました。
 と、その時です。
「こらッ。何をしてゐるッ」
 我々の背後でそんな聲が聞へました。
 三人は瞬間に我に返り、そして脱兎の如くに駆け出しました。小供ぢやあるまいし、まさか二十を超へてから「こら」などとどやし付けられるとは思つてもみませんでしたが、しかしマアそれくらい恥づかしい行ひをして居つたのですから仕方ありません。追ひかけて來るのは旅館の關係者なのでせうが、振り返つて窺う餘裕などある筈もございません。ましてや顏を覺へられたら事です。一目散に走ります。心臟は張り裂けんばかりです。
 と、チヤリンチヤリンと音がします。何だらう、と考へて解りました。浴衣を着てゐたもので小錢を仕舞う處がなくつて、私は小錢を其儘懷に入れてゐたのでございますが、其が走つた爲に道に落ちてゆくのでございました。
 すなはち私は小錢をばら撒きながら逃げてゐたのです。貧乏性の私は逃げながら叫びました。
「アゝッ、お金が落ちるッ」
 やがて我々は館内に辿り着き、命からがらの思ひで自室に逃げ込みました。しばらくして廊下のあちらの方で「畜生、何處へ逃げやがつた」「だうしたんだい」「イヤ、だうもかうもねえサ。覗きだよ、覗き」「ヘエ、覗きねえ」「糞。ここで錢が盡きてらア」
 何と言ふことでせう。惡いことは出來ません。私が落とした小錢はあたかも探偵小説に出てくる目印のやうな働きとなつて追手を導いて居つたのです。追手は小錢を辿つて捜索して居つたのです。危ないところでした。もし私がまう幾許か餘分の小錢を所持してをれば、間違いなく部屋の前までそれは點ゝと聯鎖して不届きな犯人の場所を知らしめてゐた筈なのです。僥倖でした。この時ほど私有財産を所有してゐないことを有難く感じたことは後にも先にもございません。
 サテ、今振り返つてもあれほどの恐怖を經驗したことはございません。
 ちなみにそれ以來、私の陰の仇名は「小錢落下マン」です。アゝ、恐ろしや。

 話し終はつて一息ついてから、私はまた全員を均等に眺めた。全ての眼が私に向けられて。
 いちばん年嵩の男がちよつと頷くやうな素振りをしてから、徐ろに最後の蝋燭に息を吹き掛けた。
 そして邊りは全き闇。
「サテ、濟んぢまつたけど、だうなるのかネ」
 中年男が巫山戲た口調で言ふ。
 娘が重苦しい聲で呟いた。「駄目な話も流石に百も續くと壓巻ねえ」
「アゝッ。みんな、だうしてこんなにも駄目なんだヨッ。駄目だアッ」腺病質の若者の叫ぶ聲がする。
 娘が疳に觸つたと見へてそれをなじる。「何さッ。自分だつて駄目な癖にさッ」
 年嵩の男が低く言ふ。
「言ひ傳へでは、この後とてつもなく駄目な事が起こるといふのですが……」
 そして闇。或いは靜寂。夜より他に聽くものはなし。

 あれから暫くが經つ。今のところ途轍もなく駄目な物事は起こつてゐない。
 否、もしかしたら私が氣付かないだけで、既に途轍もなく駄目になつてゐるのかも知れない。或いは、ホラ、あなたが氣付かないだけで途轍もなく駄目に……。 


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1998/05/02
文責:keith中村
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